短編小説「労働一家」11/李北鳴


李達浩は、1947年度人民経済計画についての充分な知識をもっていなかった。しかし、だからといってそれを深く研究するわけでもなかった。

(このポンコツで、一体どうやって25万トンもの硫安が生産出来るというのだ。日本人でさえ出来なかったものを…馬鹿げている)

党と職業同盟、行政機関などが耳にタコが出来るほど解説し煽動してはいるが、達浩にはそれが信じられなかった。新しい機械の導入まではああだ、こうだと言わず、従来の方法でやるのが上策だと思っていた。彼は騒々しいことが嫌いであった。この会議あの会議と連日のように開かれる会議で、「増産だ」「競争だ」と騒いでいるが、彼にはそれがある種の圧迫感を感じさせていた。

「出来もしないことで騒いでも始まらんじゃないか」

達浩はピストン・ロットを削りながら、時たまこんな風に自信をなくしたりした。

日本人の技術をもってしても、この工場ではピストン・ロットを解決することが出来なかったことをよく知っていたからである。

旋盤工たちは、上半期前期の目標を達成していたが、この工場でもっとも重要な生産品である硫安は91パーセントしか生産出来なかった。機械が古ぼけたためだと、彼はそれを当然のように思いこんでいた。

それもそれだが、彼には待遇についても理解できないことがあった。かつて日本人は年功によって昇格させてくれた。「学習」もなければ、「競争」などもなかった。昇給も大体、年功によって決められていた。たとえ数カ月であろうが、年期の少ない者が先輩格の職工を追い越すなどということは皆無であった。職責の方もそうである。

だが、人民の所有物となったこの工場では、新米であろうと仕事さえ出来れば、あまたの先輩たちを飛び越えて上役に収まってしまう。それにしたがって収入もよくなり発言権も強くなるのだ。むろん、この社会制度が正しいということは達浩自身にも解らないではなかったが、一人自分にだけそれが適用されていないようで不満であった。

彼は、これではいけないと思いながらも二つの考えをもっていた。それは1947年度の人民経済計画のノルマを超過しようとする思いと、過去の生活に戻りたいがための「有利な職場」に対する「憧れ」であった。

彼は解放前まで、清津で小さな旋盤工場を経営していた。旋盤2台にボール盤2台の貧弱な設備ではあったが、日本語が達者なうえ人付き合いのよい彼は古鉄業も兼ねて裕福な生活を送っていた。彼は今もって時折、当時の生活を思い起こしては、なんとかならないものかとはかない夢を見たりすることもあった。

彼は今年の2月、故郷の風山に行って来ると休暇をもらい、端川、城津、清津など、各地を回って「より有利な」生活条件と職場を強く求めたのであったが、つまるところは骨折り損であった。

(つづく)

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