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〈明日につなげる―無償化裁判がもたらしたもの―〉東京弁護団(下)

2022年07月05日 09:53 民族教育

一人ひとりが当事者、不条理には声を

最高裁判決から3日後の「金曜行動」には朝大生など約600人が集まり抗議の声をあげた(19年8月30日)

国の排除の論理を可視化させる成果をもたらした東京弁護団。しかし、結果として、2018年10月30日の東京高裁判決は、朝鮮高校への不指定処分について「被控訴人(国)の説明にはやや一貫性を欠く点はなくない」と国の矛盾点を認めながらも、「規定ハの省令改正がなくとも規程13条に適合しなければ不指定処分をすることは可能であり、行政処分の発生と効力は別問題」だと、「最後の最後で逃げるような判決を下した」(李春熙弁護士)。弁護団のメンバーたちは、同判決が最高裁で確定し約3年が経とうとするいま、それへの失望や憤りを述べながらも、一方でヘイトがはびこる現代の日本社会で、裁判を提起したことの意義を度かみしめている。

中学生で出会った李さん

伊藤朝日太郎弁護士

活動拠点を移したのを機に、結成当初から携わっていた愛知弁護団から抜け、2013年秋頃に東京弁護団へ加入した伊藤朝日太郎さん。2009年12月に弁護士になった直後、青年法律家協会の新人歓迎会で、後に愛知弁護団の事務局長となる裵明玉さんと出会った。

司法修習先が京都の事務所だった伊藤さんは、弁護士になった直後に起きた京都第1初級襲撃事件の弁護団に加わったものの、実働メンバーで参加できなかったことが悔やまれる思いだった。そのため、愛知で弁護士活動をスタートさせたタイミングで出会った裵明玉さんに対し、「何か必要なことがあればなんでもやりたい」と申し出ていたという。

ただここまで聞くと、なぜそれほどにも朝鮮学校と関わる問題に積極的なのかと、疑問を抱くのもおかしくない。そこには、かれが中学生時代に出会った、ある同胞との忘れられない思い出がある。

「自分は滋賀県出身で、中学時代は京都の私立中学に通った。その中学での課外学習で、あるとき丹波マンガン記念館を訪ね、創設者である李貞鎬さんと出会い、衝撃を受けた」。

丹波マンガン記念館とは、1989年に開館し2009年5月に閉館を余儀なくされた資料館で、日本の植民地支配のもと、朝鮮半島から強制連行され過酷な鉱山労働を強いられた朝鮮人労働者の歴史を伝える拠点であった。

その初代館長を務めたのが、伊藤さんが出会った在日朝鮮人1世の故・李貞鎬さん。李さんは16歳から鉱山労働に従事した朝鮮人労働者の一人でもあった。

2審・第1回口頭弁論後の報告集会(18年3月20日)

初めて李さんと出会って以来、在日朝鮮人が置かれた状況や皇民化教育の話、その当時の差別の話など、しばらくの間かれの話を聞きに通っていたという伊藤さん。あるときは入院中の病院にまで訪ねて、夢中で話を聞いたという。伊藤さんは当時までしても、在日朝鮮人コミュニティーとの接点はなく、李さんから話を聞くうちに「すごく(在日朝鮮人やそのコミュニティーが)身近に感じるようになった」。

「皇民化教育を受け、学校でいじめられた話を聞いたときのこと。古代史で朝鮮征伐という記述があるが、それにならい『朝鮮征伐や~』と、李さんはいじめられたと。『それでも自分は、日本のために死ななければならないと思っていた』と言っていたのが一番記憶に残っている。植民地支配というのは人の思想までをも支配するのだと感じた瞬間だった」(伊藤さん)

中学生だった伊藤さんが「この人には続けて会わなければ」と思い交流を重ねるうちに、李さんは亡くなってしまった。「自分としてはそれがすごく心残りで、大人になったら、何かしら関われることをしたいと思っていた」。伊藤さんにとっては、この伏線が、裁判にかかわる当然の理由であった。

思いがけない涙

康仙華弁護士

伊藤さんと同様に、活動拠点を移し東京弁護団へ加入した康仙華さんは、09年12月に弁護士登録をして、11年12月まで京都を中心に展開する法律事務所に所属していた。

この二人に共通するのは、弁護士登録した月に、京都第1初級襲撃事件が起きたこと。康さんにとっては、弁護士登録したその日に受けもった事件だったこともあり、その意味は大きかった。

大阪朝高を卒業後、朝鮮大学校政治経済学部法律学科に進学。旧司法試験制度があった当時、日本の大学2年までの単位を取得すれば1次試験が免除されるが、朝大は免除されない現状を入学後に目の当たりにした。その後、一次試験の免除を受けるために、朝大と中央大学のダブルスクールをする傍ら、文科省へ要請活動をした経験が、具体的に弁護士を目指すきっかけにあった。

「感情的なことしか話せない自分とは違い、当時一緒に行った同胞弁護士が法的な問題点を指摘しながら話すのをみて、これが弁護士の姿なんだとリアルにイメージができた」(康さん)

自身を含む朝鮮学校生徒たちが被る不条理を解消したい―。康さんのその思いは、東京弁護団に携わることを決める際にも共通していた。

東京無償化裁判をめぐる一連の判決について、康さんは「1審に関しては、国の主張の上塗りでしかなく、結論ありきの判決だった」と述べる一方で、「2審に関しては、裁判所が、規定ハの削除と13条適合性の関係性が、論理的に両立しないと明らかにして国にその釈明を求めた時点で、正直期待するところがあったので、裏切られたという印象」だと吐露した。

2審・東京高裁判決の日、不当判決の旗だしをする弁護団のメンバーたち(18年10月30日)

「いままで自分としてはウリハッキョ卒業生だけど、客観的な姿勢で裁判に臨んでいた感覚ではあったのに、あの判決を聞いた瞬間涙が止まらなくて。公正な判決が下されることへの信頼が崩れた衝撃がすごく大きかった」(康さん)

しかし、康さんは、裁判そのものの意義について、こう語気を強める。

「裁判をして、結局は政治的な解決しかないだろうといわれることがよくあるし、実際にそういう面もあるかもしれない。けれども、だからといって声をあげることや、法的な闘争をやめる選択肢はないと思う。声をあげることで、この問題の存在をなかったことにさせない。何もしなければ、この不条理な状況さえも存在しなかったことになる」

裁判所前でシュプレヒコールをする同胞や日本市民ら

2013年に始まった各地での高校無償化裁判。昨年に裁判は終結したが、訴訟そのもののプロセスや司法闘争の意義を問う必要性は、ヘイトスピーチやヘイトクライムが横行し、公権力が差別や排除の論理を更新し、その論理を公然と弱者に振りかざすいまこそ求められている。在日朝鮮人そして日本社会に暮らすすべての人々に―。

(韓賢珠)

連載「明日につなげる―無償化裁判がもたらしたもの―」では、各地の弁護団とその関係者たちにスポットをあてる。かれらが弁護団に携わることになった経緯や裁判過程での気づき、見据える課題などから、高校無償化裁判がもたらしたものが何かを確認し、今後も続く民族教育擁護運動について考える。

 

「高校無償化」制度と朝鮮高校除外

~通称・「高校無償化」制度。正式名称は「高校授業料無償化・就学支援金支給制度」。民主党政権の目玉政策として2010年度にスタートした同制度は、高校無償化法(高等学校等就学支援金の支給に関する法律 )に基づき、授業料の低減を目的に公立高校の授業料を無償化、また私立高校(外国人学校含む)には就学支援金を支給する制度だ。当初、朝鮮高校は無償化の対象に含まれていたが、中井拉致担当相(当時)の除外要請など一部国会議員らの横やりにより、朝鮮高校を無償化対象にするか否かを判断するため、検討会議が発足される(2010年5月)。その後、同年11月23日の延坪島砲撃事件を機に、審査は凍結(2010年11月)され、審査再開(2011年8月)後も結論が出ないまま、自民党政権に移行した。2012年末、文科省は無償化対象から朝鮮高校を外す方針を表明。 翌13年2月20日付で、文部科学省令の改悪により、 朝鮮高校の無償化適用根拠となる規定を削除し、制度の対象外となったことが各地の朝高に通知された。

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