〈明日につなげる―無償化裁判がもたらしたもの―〉東京弁護団(中)


責任と使命、手繰り寄せた法的成果

1審第一回口頭弁論後の報告集会(14年4月)

東京弁護団では、朝鮮学校を無償化制度の対象とする規定の削除が違法で、それを判断させるのがポイントだという考えで、裁判に臨んでいた。とりわけ、参加した弁護士たちが印象深く語ったのは、大きい弁護団の場合、代印といって一人の弁護士が取りまとめて押すことがある。しかしこの弁護団は、すべての書面に必ず全員がハンコを押したという。今回の訴訟に、全員が責任をもって臨むという一つの示しであった。

“現代版のイルクン”

「ハッキョ(学校)に対して言われるのは自分の家に対して言われているようなもので、ハッセン(生徒)たちが虐められるのは、自分の子どもやきょうだいが虐められているようなものだから」

東京弁護団の金舜植さんに、裁判に臨む際の原動力が何だったのかを問うと、そう答えが返ってきた。

東京第1初中を経て、東京中高に進学した金さん。「高校まではサッカーしかしていない子どもだった」と語るかれは、高級部時代に、日本の高校生と同じ舞台に立てず「スタートラインが違うことの理不尽さを感じた」経験が、後に弁護士として人生を歩むきっかけにあった。

全国高校サッカー選手権大会やインターハイなど、朝鮮学校が公式戦への参加を認められるようになったのは90年代に入ってのこと。世論の高まりと権利獲得運動のなか、96年までに全国高等学校体育連盟(高体連)が主催するすべての競技大会で、朝鮮学校の参加が可能となったが、金さんの高校時代はまだ、参加が認められておらず、高3の生徒たちは、学生中央大会の終わりが実質部活動の引退を意味した。

こうした現状を解消するべく、当初は専従活動家になろうとしたが、実兄から「たくさんのイルクン(活動家)が居るなかで、現代版のイルクンとしてお前にできることがもっとあるのではないか」と意見をもらったという。今でこそ各地の同胞コミュニティーを支える同胞弁護士は多くなったが、当時はまだ数えるほどだった。そうして「理不尽さに対し法律という武器で闘おう」と弁護士を目指した。

「学校や組織、同胞社会というのは、先代たちが残してくれた遺産だ。これを守らなくてはという使命感、これこそウリハッキョが育ててくれた」(金さん)

在日朝鮮人をとりまく理不尽な社会の在り方に、法を持って当事者として向き合う金さんの出発点であった。

法廷でみた壁

同じく東京弁護団の一員であった李春熙さんには、訴訟進行中に法廷の場でみた、とある光景が鮮明に残っている。それは、裁判が始まって間もないころ、証言台に立った現役の朝高生の姿だ。法廷では、個人のプライバシー保護の観点、二次被害防止の観点などから、被告と原告が同じ法廷の場に居合わせる際、壁で仕切るなどの措置をとる。

入廷行進する東京弁護団のメンバーと学校関係者ら(17年9月13日の1審判決日)

朝高生が意見陳述に立った時も同様にこの措置が取られたのだが、李さんはその壁をみて「朝鮮人として生きていくことや、朝鮮学校に通うことは、本来であれば堂々と主張していいはずのもの。それなのに、こんな壁をつくらざるをない社会の在り様を象徴しているようで、胸が苦しかった」という。

四日市初中を経て、高校は日本学校へ。京都大学経済学部に進学した大学時代に、留学同と出会った李さん。留学同での活動は、かれにとって「在日朝鮮人問題を含めた社会問題を解消していきたい、自分がおかしいと思ったことにはおかしいと声をあげる、嘘がない人生を送りたい」という新たな人生観を抱かせた。

その後、大学を卒業して初めて法律を勉強し、05年に晴れて弁護士登録をした。もっとも、李さんが弁護士になった頃から「日本の制裁政治がはじまり、当時の安倍晋三官房長官が『法の厳格適用』ということを言い出した」。以降、朝鮮学校や総聯が攻撃にさらされているの間近で見ながら「それに対処するような弁護士人生だった」と振り返る。

今日まで、李さんが一心不乱に闘いの道を切り開いてきた根底には「若き日の青年・李春熙がみて、いまも志を保ち頑張っているなと、自分にとって裏切りと思わない生き方をしたい、現実を前に変節したくない」という、留学同時代の教訓があった。そしてかれにとって、この問題が自分事であることを常に自覚できたのは「ウリハッキョに育てられ、ウリハッキョなくして自分はない」という揺るぎのない思いがあったから。李さんは、弁護士を目指した当初に抱いた志を胸に、弁護士として東京無償化裁判の先頭に立ち続けた。

特徴が示す国の不当性

東京無償化裁判の前史ともいえる枝川土地裁判で、金さんとともに学校側の弁護を担った師岡康子さん。師岡さんは、在日朝鮮人の弁護士や、もともと在日コミュニティーとつながりのある弁護士を主軸とした他地方の弁護団とは異なる東京弁護団の特徴について、「職人気質のプロを中心に組み立てた弁護団」だと語る。

師岡康子さん(提供=月刊イオ)

一方で、東京における国に対する裁判の困難さを考慮し、訴訟形態について協議を重ねた当時をこのように振り返った。

「田中宏さんや私は、高校無償化からの朝鮮学校排除をめぐる問題は非常に政治的な問題なので、正面から民族教育の権利や朝鮮との関係を押し出すのではなく、高校無償化法自体に違反することの問題性をメインに押し出そうと提案した。そもそも朝鮮学校のみを排除することの違法性は、保守的な考えの人であっても常識的な法律家であれば反論できないような理屈が立たない話だったからだ」。一方で師岡さんは、当時、民族教育のありさまをストレートに主張することの重要性を語った金さんや李さんなど在日の弁護士たち、そして訴訟形態の結論を出すまでの弁護団としての少なくない葛藤にも触れた。

「朝鮮学校がなぜ民族団体である総聯や朝鮮とつながっていたらおかしいんだと、結局それを理由に差別されている。この点について、お二人は朝鮮学校出身者として誇りを持たれていて、その正当性を全面に訴える方向でたたかいたいと、言っていた。しかし、一般的に国を相手に裁判で勝つということは難しい。なかでも東京の裁判所は一番権力に近く、締めつけがある。しかも、それが国策で、戦前から引き続く在日朝鮮人敵視を根源とする、朝鮮学校排除政策の延長にあるので、それを覆すことは並大抵ではない」(師岡さん)

そして、こう続けた。

「そもそも外国人学校が出身国とつながるのは当然のことで、それを理由に排除するのはおかしい。ただそこを全面に出しては裁判で勝つのは難しい。日本政府が朝鮮学校を潰そうと兵糧攻めしている状況で、無償化されないことは存亡にかかわる問題だと捉えた。そして、そのためにはとにかく勝てる可能性が高い法的主張をするべきだと考えた」。

高校無償化法の趣旨に反する、国の行為の不当性に論点を絞り、裁判所へ訴える―。東京弁護団のこの特徴こそが、高校無償化からの朝鮮学校排除が、いかにありえないことだったのかを物語っていた。

幼いころの衝撃

師岡さんが、朝鮮学校に携わる最初のきっかけは2002年9月の日朝平壌宣言後、拉致問題に伴う政府やマスコミをあげての朝鮮バッシングが続いていた当時、東京弁護士会の女性の権利の委員会で委員長を務めていた頃にさかのぼる。弁護士になってから女性差別の問題を中心に取り組んでいた同氏だが、朝鮮学校の生徒たち、とりわけ女子生徒たちが攻撃された当時の朝鮮バッシングに、社会の異様さと憤りを感じたという。

1審東京地裁判決後の旗だし(17年9月13日)

「これまでは朝鮮に対し日本人や日本が植民地支配という悪いことをしたと、建前上は朝鮮は被害者だとしていた人々が、当時の朝鮮バッシング以降は、朝鮮人が悪いことをした、日本人が被害者で朝鮮人には何言ってもいいんだというような風潮ができあがった。今のヘイトスピーチ・ヘイトクライムにつながる基盤ができてしまった」(師岡さん)

そのような危険な状況を受け、2002年には弁護士有志の会「在日コリアンに対する嫌がらせを許さない若手弁護士の会」の動きが起こる。「これは修習生たちが中心だったので、すでに弁護士会で活動していた自分は、女性の権利の委員会や外国人の権利に関する委員会、子どもの権利の委員会、人権擁護委員会などに呼びかけて、この問題をなんとかしようと取り組みはじめた」(師岡さん)。

自身が女性であるということ、またそれに伴う差別的な体験もあり、女性の権利の問題には積極的に取り組んできたが、外国人に対する問題、とりわけ植民地主義の問題に取り組むようになったのは「家庭環境が大きかった」と話す師岡さん。

「父が新聞記者で、労働組合運動を一生懸命にやっている人だった。母も同様に組合に務めていて、家のなかでさまざま社会問題が話される。かつて日本が中国や朝鮮で何をしたのか、子どもの頃に本で知った知識だったが、それは衝撃で、命や土地、財産はもちろんだが、言葉や名前まで奪い、慰安婦問題でさらに衝撃をうけた。このころから、日本がやってきたことへの責任があると思ってきた。そのような過去を償っていないどころか戦後も朝鮮人を差別し続けている状況を変えなければならないと考えた」(師岡さん)

そのような考えから、師岡さんは、朝鮮学校をはじめ外国人学校や民族学校の制度的保障をはじめとする外国人の人権保障法整備を求め、弁護士として多岐にわたる活動を行った。そして、東京弁護団にも当然のように加わった。

法律論を全面に押し出し闘った東京弁護団。裁判は、敗訴こそしたものの、1審では各地で唯一、文科省の役人を証人として法廷に立たせ、2審では、二つの理由(規定ハ、13条適合性)が矛盾していることを明らかにした。これはその後の各地における同種訴訟でも引用される重要な成果であった。

(韓賢珠、続く)

連載「明日につなげる―無償化裁判がもたらしたもの―」では、各地の弁護団とその関係者たちにスポットをあてる。かれらが弁護団に携わることになった経緯や裁判過程での気づき、見据える課題などから、高校無償化裁判がもたらしたものが何かを確認し、今後も続く民族教育擁護運動について考える。

 

「高校無償化」制度と朝鮮高校除外

~通称・「高校無償化」制度。正式名称は「高校授業料無償化・就学支援金支給制度」。民主党政権の目玉政策として2010年度にスタートした同制度は、高校無償化法(高等学校等就学支援金の支給に関する法律 )に基づき、授業料の低減を目的に公立高校の授業料を無償化、また私立高校(外国人学校含む)には就学支援金を支給する制度だ。当初、朝鮮高校は無償化の対象に含まれていたが、中井拉致担当相(当時)の除外要請など一部国会議員らの横やりにより、朝鮮高校を無償化対象にするか否かを判断するため、検討会議が発足される(2010年5月)。その後、同年11月23日の延坪島砲撃事件を機に、審査は凍結(2010年11月)され、審査再開(2011年8月)後も結論が出ないまま、自民党政権に移行した。2012年末、文科省は無償化対象から朝鮮高校を外す方針を表明。 翌13年2月20日付で、文部科学省令の改悪により、 朝鮮高校の無償化適用根拠となる規定を削除し、制度の対象外となったことが各地の朝高に通知された。

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