〈明日につなげる―無償化裁判がもたらしたもの―〉弁護士たちの思い・東京


必ず役立つ土台

東京無償化裁判は、2019年8月27日に最高裁が原告側の上告を棄却したことにより終結を迎えた。無償化裁判という経験、そして課題について、東京弁護団に携わる弁護士たちの声を紹介する。(まとめ・韓賢珠)

最高裁判決前に催された同胞、日本市民らによる「2・2東京集会」(19年2月2日)

師岡康子弁護士

本来であれば、高校無償化法は、日本の学校と同等に外国人学校の制度的保障を実現する契機になるはずだった。ところが、朝鮮学校だけを排除するという新たな差別を作ってしまった。

根本的に政府が朝鮮学校を学校として認めたくないという差別政策が問題で、それは植民地政策を反省せずに、植民地支配の生き証人である在日朝鮮人を敵視して排除してきた政策が根底にある。その政策自体を変えなければいけない。

SDGsや多文化共生は前提として、さまざまな民族、国籍の人々が差別されず、排除されず、平等な社会の一員として人権を保障されていなければならない。

しかし日本にはその前提がない。差別をなくし平等な人権を保障する政策と差別撤廃法制度を実現する取り組みに力を合わせたい。

金舜植弁護士

総聯中央本部の元財政局長が不当に逮捕されたとき、自分は弁護団の一員で、当時の刑事事件の公判では、被疑者は手錠をしたまま入廷していた。

その時に主任弁護人だった故・吉峯啓晴先生は、手錠をして入廷する元財政局長の姿をみながら「金くん、あれおかしいよね。まだ有罪でもなく被疑者の段階なのに、罪人扱いされるのか」と言って。裁判長にその旨を伝え、以来、手錠をはずして入廷するようにと、対応が変わった。

これが人権だと思った。ちょっとした問題にみえてもそれがすごく本質的な問題なことがある。怖いのは現場で慣れてしまうと、人権侵害や差別を受けていても、それがいつのまにか当たり前になってしまう。このような本質的な問題に、アンテナを立てられる人が増えなくてはいけないと思う。

朝鮮学校に対する差別についても、問題の本質を的確に捉えて声を上げ続けることが重要だ。

李春熙弁護士

無償化裁判で学生当事者というが、私は全同胞が当事者だと思う。そこで否定されたのは、生徒の権利ではあるけれど、学校そのものが否定され、在日朝鮮人の営みの総体が否定され、除外されて当然というレッテルが貼られたわけだから。

権力があり、相対する弱者がいて、正々堂々と闘い勝てれば一番いいが、抵抗してそれを記録に残していくことも、闘い方として十分有効だし必要だと考えている。それが次世代への確かな足場になると思うからだ。立ち上がって抵抗の記録を積んでいかないと、勝つチャンスすら失われてしまう。

今回の裁判闘争では、乗り越えるまでに至らなかったが、積んでおいた土台が次に壁を乗り越えるときに必ず役立つ。これこそ裁判の意義ではないか。

康仙華弁護士

権利は、感情や雰囲気ではなく、法的根拠があるもの。それをきっちり裁判所に認めてもらうことで動かせない事実になる。

朝鮮人の権利が虐げられてきたからこそ、なおさらその権利を確認する意味で司法闘争は大事だと考える。

この裁判を振り返ってみると、弁護団の一員、生徒たち原告の代理人ではなく、朝鮮学校卒業生として、当事者としての立ち位置が強かったと思うが、それはある意味当然のこと。チョソンサラムとして生きていくことを頑張ること、強調することは、ともすると違和感があるかもしれないが、日本社会がチョソンサラムとして頑張って生きることを強いている。

そもそも自由な選択肢が与えられない社会だから、頑張らなくてはいけない。しかし、そんな風に頑張らなくても、だれもがいきいきと生きられる社会を自分の子どもたちには与えたい。

伊藤朝日太郎弁護士

高校無償化からの朝鮮学校排除が差別であることは、最高裁が何を言おうが揺るがない事実。司法がそれを是認する判断をした悪影響は大きい。だからこそ、判決の悪影響を相殺できるような活動をしていきたい。

私は裁判にかかわることができたからこそ、歴史的な脈略のなかで今があり、在日朝鮮人がいて、それを知らずに語るべきではないと思うようになった。

一方、世間では、植民地支配の結果として現在の在日朝鮮人をとりまく状況があるというのは理解されても、2000年代から続く朝鮮悪魔化政策によって、朝鮮との関係になると、そこがすんと落ちにくい。

だからついつい、朝鮮学校は本国の学校ではなく在日がつくり運営する日本社会にある学校だと、だから差別はおかしい」と説明しがちだが、これでは共和国を祖国とする必然性の説明から逃げてしまう語りだ。これをちゃんと説明する言葉を探したい。