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〈朝鮮史から民族を考える 11〉「乙巳五条約」の法的効力(下)

2008年02月13日 00:00 歴史

植民地支配の法的責任を問う

「韓国特派大使伊藤博文復命書」草案の一部

「韓国特派大使伊藤博文復命書」草案の一部

「不当・合法(有効)論」に対する批判

まず、条約形式の問題について。

当時の国際法の慣習と学説において、保護条約のような国家の安危に直接関連する重大な条約は、批准を必要とする「正式条約」の体裁を取らなければならないと一般に認識されていた。日本が「乙巳五条約」締結で、批准条約形式でなく、略式条約形式をとったのは、韓国朝廷と民衆の反抗を予想し、手っ取り早く条約を成し遂げようとしたためであった。列国の保護条約が批准条約であったことを考えるとこれは、破格の例であった。日本の条約史の特徴のひとつに、条約内容と条約形式の不一致がある。条約内容の重大性にもかかわらず、それとは逆に略式条約形式を取っているのである。こうした特徴は、日本における国際法の発達が国家政策の実行と密接に関連していることに由来する。日本の国際法学の多くは、国家の実行を学説として追認し、法的に正当化しようとしたのである。

次に、強制性の問題について。

「乙巳五条約」の法的効力を論じる場合、条約形態は形式であり、軍事的強制は内容である。それゆえに強制性の問題が基本的かつ本質的なものとなる。同条約の強制性問題において、現在焦点となっている論点は、高宗皇帝の裁可があったのか、なかったのかという問題である。

原田環、海野福寿両氏は、これまで「乙巳五条約」研究において基本史料として使っていた日本側公式記録「韓国特派大使伊藤博文復命書」(天皇に提出する事業経過報告)にとどまらず、韓国側公式記録である「五大臣上疏文」の分析を通じて、(1)「乙巳五条約」の協商は高宗皇帝が主導し、彼の裁可を得て条約は締結された、(2)1905年12月16日に提出した五大臣連名の上疏(売国奴の汚名を着せられたことに対して「乙巳五賊」が皇帝に送った抗議文)に対する皇帝の批答は慰労を主な内容としており上疏を斥けていない、と主張した。

原田・海野両氏が使った二点の史料に関していくつかの問題点を指摘したい。

「呉炳序等上疏文」

「呉炳序等上疏文」

(1)「伊藤博文復命書」の草案

公文書資料を使う場合、その草案と比較することが史料批判に必要不可欠の手続きであるといえる。これまで「乙巳五条約」研究において、「復命書」の草案を使った例はなかった。しかし、国会図書館憲政資料室に所蔵されている「都築馨六関係文書」の中に「復命書」の草案の一部が残っていた。都築馨六は伊藤に同行した首席随員である。筆跡からして彼が推敲して書いたことは間違いない。この草案には多くの修正の跡がみられる。草案と修正案を比較してみると、三つのことが指摘できる。1草案では皇帝が保護条約に同意しない、とあるのを修正案では同意したかのように書き直していることである。2皇帝が韓国政府に対して日本政府の提案に妥協することを命じた、という内容を書き加えたことである。3「会合談判」や「協議」という字句を、正式交渉の性格の濃い「協商」という字句に修正していることである。

(2)「五大臣上疏文」について

「五大臣上疏文」は、当時の韓国の人々から「乙巳五賊」と糾弾された彼らが、条約締結は韓国大臣が拒否したにも関わらず、高宗皇帝の指示によりやむなくなされたという「顛末」を記した弁明書である。

しかし、(1)この上疏文は事前に林権助日本公使が見ており、御用新聞「大韓日報」や「大阪毎日新聞」に掲載されていることから、条約の合法性を誇示するために事後につじつまを合わせたものであると考えられる。(2)ほかの史料を通じて、「五大臣上疏文」の虚偽性を知ることができる。たとえば、1906年1月5日に提出された「呉炳序等上疏文」は、「五大臣上疏文」を批判して、五大臣が巧妙にわなを仕掛け、責任を皇帝に被せようとした諸事実を指摘している。皇帝はこの上疏文に批答を与え、「爾の言葉は詳しく明らかであり、条里(ママ)がある」と肯定的に評価している。また、「権重顕上疏文」は、「五賊」のひとりである当の権重顕が1905年11月25日に提出したものだが、そこには「乙巳五条約」が定められた条約手続きを踏んでいないことや、皇帝の裁可を経ずに調印されたことなど、後に提出された「五大臣上疏文」とはまったく正反対の事実が明らかにされている。

以上、二点の史料批判を通じて合法論の史料的根拠は再検討を迫られたといえよう。

戦後処理における植民地支配責任

戦後処理において敗戦国の戦争責任についてはある程度追及されはしたが、植民地支配責任に関しては無視されてきた。しかし、第三世界が国際政治の大きな勢力として成長するに従い、現代国際法は大国の意思だけで作り上げることができなくなった。朝・日会談、ダーバン会議などで核心問題として指摘されていることは、植民地支配責任が歴史の問題としてだけでなく、法の問題としても問われていることである。これまでの戦後補償運動そのものの先に、植民地支配責任が法の問題として本格的に問われ直す時代が近づいていることを、それは予示している。

(康成銀、朝鮮大学校教授)

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