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〈朝鮮史から民族を考える 18〉「植民地近代化」論批判(下)

2008年05月12日 00:00 歴史

跋扈(ばっこ)する資本主義万能論

18-1批判その二

第2に、個々の実証レベルで問題点がある。

(1)119世紀の経済停滞説について。

一時期の経済危機が必ずしもその危機を乗り越える内的動力の枯渇を意味するのではない。イギリスや日本の例を見ても、近代前後期に農村経済の崩壊と物価の暴騰に直面するのは一般的に見られる傾向であり、朝鮮固有の傾向ではないのである。

(2)土地調査事業について。

日帝が土地所有制度の近代化を進めたのは、朝鮮を支配するためであって、けっして朝鮮の近代化自体をめざしたのではなかった。近代化の支配が前近代化の支配より、さらに悪辣で恐ろしいというのはまさにこの点にある。

また、土地の収奪を考える場合、土地調査事業より、20年代、30年代にかけて行われた「産米増殖計画」の方が問題だった。肥料や灌漑施設は農民の負担で行ったため、借金を抱えて没落していく農民が多かった。

(3)植民地工業化について。

植民地化の進展が、何がしの市場的発展を植民地社会へもたらすことは確かである。けれどもそれが、現地社会の経済発展につながり得たとか、植民地での抑圧を軽減しえたと考えるのは、それこそ木を見て森を見ない見方だと思う。なぜならば、植民地朝鮮における市場の発展は、あくまでも日本総資本の要求に沿うものであって、朝鮮国内の蓄積構造、個別資本の発展には直結しないからである。例えば、1930年代に工業化が進展し、経済成長も増加したが、その投資はほとんど日本の大資本によるものであったし、生産財・資本財供給と製品輸出はほぼ日本が相手であった。つまり、日本のための工業化なのである。

日本帝国主義の略奪によって仁川港に集積された対日搬出米

日本帝国主義の略奪によって仁川港に集積された対日搬出米

そのため朝鮮内の各工業部門間・民族間における有機的連関を、それはほとんどもっていなかった。また、30年代に近代工業化の波に乗って一部の朝鮮人企業がある程度成長したとはいえ、生産性の低さから大規模工場への成長の道はほとんど閉ざされていた。注目すべきは、中日戦争の拡大・国家総動員体制の強化とともに、朝鮮人資本の経営する近代産業が極めて大きな打撃を被ったことである。

この点はとても重要だ。戦時経済統制の強化は、朝鮮人資本家の中で軍需産業の一翼を担った一部の大資本を除いて、朝鮮人企業の大部分を没落させていったのである。朴好根の研究によると、例えば、38年に朝鮮人経営の会社数は全体の48%を占めていたが、44年には9%に低下した。また、資本面でも、38年に朝鮮人会社は払込資本金総額の12%を占めていたが、44年には3%と低くなっている。戦時経済統制の強化によって、工業部門における朝鮮人資本の形成ないし蓄積は衰退過程をたどっていったのである。

430年代植民地工業化と60年代開発独裁下での経済成長の「連続性」について。

まず、工場施設やインフラなどの物的遺産は断絶が明らかであり、そのほとんどが十分に活用できなかった。帰属工場(旧日本人資産の工業施設)における生産萎縮がかなり進んでおり、加えて、朝鮮戦争による、繊維、機械、金属などの工場における施設破壊・消失は非常に多かった。また、技術・熟練や経営管理能力などの人的遺産は、解放後に産業界において多く引き継がれはしたものの、限定的なものでしかなかった。

南朝鮮経済が、60年代後半以降、高度成長をなした背景には、東アジア低開発諸国の近代化(経済成長)=開発独裁体制化によって共産主義の影響力を弱めようとする米国のいわゆるロストウ発展路線があった。とくに南朝鮮「国軍」のベトナム派兵を契機に、その見返りとして積極的に外資導入がなされた。南朝鮮の高度成長の担い手となった現代、韓進、大宇、三星などの新興財閥は、ベトナム特需で発展の基礎を築き、日本との国交正常化に伴う経済協力資金の「特恵」により事業多角化に成功して企業グループを形成することができた。いわば「韓」・日・米の三角貿易構造の中で、高度経済成長と輸出指向型工業化の条件を整えることができたのである。反面、植民地期に企業家だった京城紡織、朝鮮紡織、三和、三養社、和信などの大企業は、解放後も帰属財産の経営・管理などで成長したことがあったが、その多くは新産業への投資および多角化に乗り遅れたか、「政府」の産業政策から排除されたという理由で衰退してしまったのである。

植民地期における工業化が南朝鮮の輸出指向型工業化に与えた「直接的な」影響というものはほとんどなかったと思われる。

「ニューライト」運動の先頭へ

研究において論争は付きものだが、社会的には本意でない結果を生む場合がある。代表的な「植民地近代化」論者の一人である安秉直は、それまで進歩的学者として知られていたが、日本に長期間滞在する中で持論であった植民地半封建社会論から植民地近代化論へと、学問的な「コペルニクス的転換」をしたと自ら述べたことがある。その背景にはソ連・東欧社会主義諸国の崩壊による冷戦の終結がある。彼の学問的転換は資本主義万能論に直結している。安秉直とその弟子である李栄薰らは、現在、政治的な「ニューライト」(新右翼)運動の中心に位置して、反共反北行動の先頭に立っている。そればかりか、民主化運動によって勝ち取ることができた統一志向的な新しい近現代史の教科書を、「自虐的教科書」(どこかで聞いたような言葉である)と攻撃し、それに対抗して〝代案教科書〟なるものを出版している。彼らのこのような変化を、思想的には変節と言うべきであろう。

(康成銀、朝鮮大学校教授)

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