〈歴史の「語り部」を探して〉日常と景勝地に残る戦争の爪痕/奈良編
2026年03月30日 10:30 歴史
市民団体により新たに設置された柳本飛行場の史実を明記した説明板
奈良県には、今から千数百年前、百済、新羅、高句麗の三国文化が朝鮮半島からの渡来人によって伝えられ、飛鳥文化が花開いたことは広く周知されている。このような渡来文化が栄えた奈良県にも、日本帝国主義による植民地支配や強制連行の歴史がある。総聯奈良県本部の邵哲珍委員長に今回の「語り部」となる「天理・柳本飛行場跡の説明板撤去について考える会」共同代表の髙野眞幸さん、NPO法人「屯鶴峯地下壕を考える会」事務局長の田中正志さんを紹介してもらった。
天理市の柳本飛行場(大和海軍航空基地)、香芝市の屯鶴峯地下壕でのフィールドワーク、提供いただいた資料や書籍をもとに、奈良県内の朝鮮人強制連行の歴史を見ていく。
歴史伝える説明板が…
1月、JR長柄駅で「天理・柳本飛行場跡の説明板撤去について考える会」(以下、考える会)共同代表の髙野眞幸さんと会い、車に揺られた。

メイン滑走路があった場所
万葉まほろば線の柳本駅と長柄駅の西側一帯には過去に旧海軍が建設した柳本飛行場(大和海軍航空基地)があった。しかし現在は、のどかな田畑に戻り、住宅が立ち並んでいる。メイン滑走路があった場所は、戦後再舗装され、道路の側面には当時の質の悪いコンクリートが顔をのぞかせている。
周辺には、防空壕がいたるところに点在している。人々の生活の身近な場所に、戦争の爪痕が残されているのに驚きを隠せなかった。

柳本飛行場跡付近にたたずむ防空壕
柳本飛行場は、本土決戦時の重要な拠点とするため太平洋戦争末期の1943年秋頃から海軍によって建設が始まったとされている。労働力を補うため、日本人の徴用や学徒動員の他に、建設には多くの朝鮮人労働者が動員された。その数は2~3千人とも言われている。飛行場の建設作業の他に、飛行場関連の武器や燃料、物資を保管するためのトンネル掘削作業にも朝鮮人があてられた。さらに、併設する海軍施設部内の「慰安所」には約20人の朝鮮人女性が連行されたという。
柳本飛行場に関する史実を明記した説明板が市と市教育委員会によって、敗戦から50年にあたる1995年に設置された。しかし2014年4月18日、戦後70年を目前にし、説明板は「いわゆる『強制性』の点も含め市および市教育委員会の公式見解と解される掲示は適当ではない」と、設置者の手によって突如撤去された。そして5年後の2019年、説明板撤去を機に発足した「考える会」が主体となり、以前の設置場所とは別の天理市長柄町の水田地帯の一角に新たな説明板を立てた。

説明板が撤去された跡
髙野さんは撤去された説明板があった公園にも案内してくれた。そこには、金属製の柱だけが、風にさらされていた。歴史を伝える「語り部」が無残にもなくされた跡に、歴史修正主義に傾く日本を痛感させられた。
敗戦間近に作られた壕

2月、NPO法人「屯鶴峯(どんづるぼう)地下壕を考える会」事務局長の田中正志さんの案内のもと、屯鶴峯地下壕を訪れた。
奈良県と大阪府の境界に位置する屯鶴峯(香芝市)は、近くの二上山(にじょうさん)の噴火によって火山灰などが堆積してできた凝灰岩で、白い岩肌の広がる奇観が県の天然記念物にも指定された景勝地である。その名前は、白い岩が木々の緑の間に見え、鶴がとまって屯(たむろ)しているように見えることに由来している。
景勝地の地下には、敗戦間近に造られた壕が残る。
沢づいた草をかき分けながら進むと、真っ黒な空間が見える。奥には何も見えない。入口に立つだけでひんやりした空気に触れた。入り口から数メートル進んだ暗闇の中、懐中電灯で照らすと、岩肌に刻まれた無数の傷や穴が浮かび上がる。地下壕を掘り進める際につけられたツルハシの痕跡やダイナマイトを設置した跡だという。さらに奥に進むと、曲がり角も現れ、案内がなければ迷ってしまいそうだった。壕の中には冬眠中のコウモリなども見ることができた。
地下壕はもう一つ存在し、現在は京都大学防災研究所が地殻変動の研究のために使用している。2つの壕の総延長は約2千メートルに及ぶ。
地元の『二上村史』(1956年刊行)には、「6月16日師19502部隊の齋藤少尉が突然来校し、明日陸軍部隊が当小学校を兵舎に借用したい旨申し出があり、…結局8月31日まで兵舎に転用するということになり…」と記されている。このことから、地下壕は1945年の6月半ばから、8月15日までの極めて短期間に掘削されたということがうかがえる。

屯鶴峯から見渡した景色
この「師(すい)19502」は、正式名称を第19地下施設隊といい、その名の通り、地下施設を作るために編成された部隊である。
田中さんによると、この部隊に所属していた日本人将校から話を聞いた際に「朝鮮人の兵隊が全体の3分の1で、100名ぐらいいた」「日本の言葉も余り分からない。朝鮮語は禁止されていたが、2、3人集まると朝鮮語になっていた」などと証言したという。
地下壕は米国が本土に上陸した際に備え、近くの大正飛行場(現在の八尾空港、大阪府八尾市)と連携する「航空総軍戦闘指令所」として造られたという。
終戦まで使われることはなかったが、当時の緊迫した様子を生々しく伝えている。
動員された朝鮮人の労働の過酷さ、そして戦争の悲惨さと愚かさを静かに語りかけているような気がした。
(尹佳蓮)
いまも各地には、日本による植民地支配や強制連行の痕跡が多数存在し、朝鮮半島にゆかりある場所や遺物もまた、物言わぬ「語り部」として数多く残っている。連載「歴史の『語り部』を探して」では、現代までつづく植民地支配の禍根や、日本のなかの朝鮮ゆかりの地について、紹介していく。