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〈歴史の「語り部」を探して〉過酷な労働強いられた「怨恨の地」/福岡・筑豊編

2023年06月20日 13:49 文化・歴史

日本最大の炭田地帯・福岡県筑豊。植民地期、この地には十数万人の朝鮮人が連れてこられ、強制労働に従事させられたといわれている。劣悪な環境での労働はもとより暴行やリンチも横行していた。過酷な労働現場で犠牲となり、また生き延びても貧困と差別にあえいだ朝鮮人。その歴史を語り継ぐためフィールドワークや講習に心血を注ぐ裵東録さん(79)とともに、筑豊地域における歴史の「語り部」をまわった。

ここで、安らかに/無窮花堂

裵さんがまず案内してくれたのは、飯塚市にある飯塚霊園だった。その一角には朝鮮人無縁仏を追悼する無窮花堂がある。

無窮花堂は2000年12月に建てられた。北九州・八幡西区の貝島大辻炭坑に強制連行された在日朝鮮人1世である故・裵来善さん(当時、飯塚市在住)の呼びかけによって1995年に建立運動が開始。裵さんを代表とする「在日筑豊コリア強制連行犠牲者納骨式追悼碑建立実行委員会」は飯塚市との交渉を重ね、朝鮮人犠牲者を悼む場の建立を手繰り寄せた。朝鮮の息吹感じる瓦屋根の慰霊堂と、朝・日の言語で書かれた追悼文。扉の奥には朝鮮半島の図と無窮花が刻まれた石碑が立っている。

初夏から秋にかけて長く咲き続ける無窮花はその特徴から、虐げられた朝鮮民族の不屈の念、自主独立の旗印となってきた。無窮花堂には「犠牲になった同胞たちが、無窮花に包まれ安らかに眠ってほしい」という願いがこめられたそうだ。02年の第2期工事では、写真やイラストで朝・日の歴史を語る歴史回廊も新たに設置された。

裵東録さんは、裵来善さんらと共に無窮花堂の建立に向けて東奔西走した一人。「建立にあたり、県内外の寺や朝鮮人慰霊堂を見てまわった。そのうち兵庫県のとある朝鮮屋根の寺が印象的で。写真を撮って『筑豊にも瓦の慰霊堂を作ろうや』って提案した。そしたら近畿大学の建築学の先生が無償で設計図を作ってくれてね。それを基に建てたんよ」と当時を振り返る。

筑豊地域に暮らす在日2世の裵東録さんは現在、筑豊や八幡地域の小中学校などで、在日朝鮮人史の「語り部」活動をしている。また、この地に残る朝鮮人強制労働史を語り継ぐため、長年フィールドワークも行ってきた。

無窮花堂には約120柱の遺骨が眠る。2010年代に入ってからは、排外的な政治家や団体 などから碑文に対する抗議や妨害が寄せられるように。犠牲者に向けられるヘイト行為に裵さんは「本当、苦しいんよ」と肩を落とす。しかし同時に「あんたが来てくれてうれしい。代々次いでいかんといけん問題やけえね」と語った。

麻生の「城下町」

無窮花堂からしばらく車を走らせ、隣接市の田川市に着いた。面積は飯塚市の4分の1、人口は2分の1程度の小さな町だ。

当時、この地域で最も多くの朝鮮人を強制労働させたのは麻生炭鉱だった。自民党国会議員・麻生太郎の祖父である麻生太吉が築いたこの炭鉱は、植民地期に朝鮮人労働者を酷使することで莫大な利益を収めた。42年に麻生財閥が運営する炭鉱で働いた文有烈さんは「麻生は朝鮮人をアリ一匹と同じ感覚で酷使した」(本紙2009年8月3日付)と証言を残している。炭鉱労働者7996人のうち4919人が逃亡した(福岡県「移入半島人労務者に関する調査表」)という異例の数字からみても、朝鮮人労働者の過酷な労働環境と待遇について推察できる。

裵さんは「筑豊炭鉱を支えた中核が麻生財閥。朝鮮人をこき使って一番多くの死者を生んだ」と話す。

炭鉱は現在も麻生セメント工場としてその姿を残している。周辺を見渡すと、麻生グループがこの地域で未だ絶大な権力を誇っていることがうかがえた。田川市一帯には麻生グループが経営する病院や学校、図書館が立ち並ぶほか、公園や橋などいたる所に麻生管理下の施設がある。

裵さんいわくこの地は「麻生の『城下町』」。朝鮮人にとってはまさに怨恨の地だ。解説を聞きながら見る車窓ごしの風景は、居心地の悪いものだった。

ボタ石と朝鮮人

田川市添田町の日向墓地には、炭鉱労働で犠牲になった朝鮮人の墓がある。裵さんが最後に案内してくれたその場所では、大きな衝撃を受けた。

墓地の向かい側にはかつて、朝鮮人7~800人を強制労働させた古河大峰炭鉱があった。そして炭鉱のすぐ横、現在の日向墓地には選炭後に不要となった岩石廃棄物(ボタ)が蓄積されたボタ山があったという。

そんな「石炭になりそこない」のボタ石が、朝鮮人の「墓」だった。

裵さんによると、墓地に埋められた遺体は古河大峰炭鉱の社宅「愛汗寮」に暮らしていた朝鮮人のもの。当時「ボタ山が1m高くなるごとに、労働者が1人ずつ死んだ」と表現されるほど、炭鉱では事故が頻繁に起きていた。また朝鮮人は桜の木やベルトで殴られることも日常茶飯事だった。44年には、盗難事件の犯人に仕立て上げられ、風呂場に放り投げられた朝鮮人が心臓発作で亡くなった事件も起きている。

しかし企業は当然のようにかれらを弔わなかった。そんななかで朝鮮人労働者らは早朝や深夜の時間帯に、監視の目を避けながら犠牲者の遺骨をツボに入れて土に埋め、目印としてボタ石を置いたという。現在も37基ある。転々と置かれたボタ石は一見するとただの石ころみたいで「え、これ?」と思わず声がでるほどだった。

名もなき朝鮮人犠牲者を悼み、以前は九州中高(当時)生徒らが毎年花を手向けにきていたという。しかしそれを良く思わない近隣住民との軋轢もあり、今は堂々と犠牲者を追悼することさえ出来ないのが現状だと、裵さんは言った。

「85年ごろに初めてここにきて衝撃を受けた。この石ころが朝鮮人の墓と思うと涙が止まらんかった。国を奪われ言葉を奪われ、死んでも名前すら残されないなんて。今でも来るたびに胸が苦しくなるから、正直来たくないとも思う。でもね、これが私の使命と思って気を取り直しとるんよ」。裵さんはそう言って「手ぶらで来てミアナムニダ。無念に亡くなったハラボジたちよ、どうか安らかに」と優しく墓に語りかけた。

語り部として

「筑豊の石炭、八幡の鉄、朝鮮人強制労働。この相関関係が戦争を支えた」。裵さんはいう。

裵さんの父である故・裵鳳坤さんも八幡製鉄所で強制労働させられた。母の故・姜金順さんは生前、その頃を思い出しては「その時私たちは奴隷だった。早く詰め!という脅しにおびえながら毎日10時間以上働いた」と泣きながら話したという。カンテラ一つで真っ暗な洞窟の中に潜り、命がけで石炭を掘る朝鮮人の作業は、太平洋戦争を「支える」燃料となった。

また、豊洲炭鉱上田鉱業所で強制労働にあい、のちに筑豊地域で在日朝鮮人1世の「語り部」をつとめた故・安龍漢さんは、病床に伏した晩年、2世の「語り部」である裵さんに対し苦しみをぶちまけたという。点滴スタンドを振り回しながら、「배동무, 내가 17살에 끌려와서 왜 여기서 죽어야 하나!(裵トンム、17歳で連れてこられた私がなぜここで死ななければならないのか!)」と訴えたその姿は、今でも裵さんの脳裏に焼き付いている。

家族、同胞、そして自身の経験から裵さんは「語り部」としての使命を全うしている。案内中、幾度となく涙を流しながらも「私が恨を晴らさないと、という思いで孤軍奮闘している。だから、喋れるうちは続けるつもり」と力を込めた。時代を越え語りつがれた朝鮮人の「恨」は、日本政府の謝罪と賠償が成されてこそ、晴れるだろう。

(金紗栄)

いまも各地には、日本による植民地支配や強制連行の痕跡が多数存在し、朝鮮半島にゆかりある場所や遺物もまた、物言わぬ「語り部」として数多く残っている。連載「歴史の『語り部』を探して」では、現代までつづく植民地支配の禍根や、日本のなかの朝鮮ゆかりの地について、紹介していく。

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