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追悼・金賢玉さん――同胞の生に寄り添った総聯活動家/朴金優綺

2024年08月23日 09:57 寄稿

日本軍「慰安婦」として朝鮮半島から沖縄に連行され、戦後も沖縄で暮らした裴奉奇さんを晩年まで支え、その経験を後代に伝え続けてきた金賢玉さんが、7月14日までに他界した。享年81。賢玉さんと深く親交のあった在日本朝鮮人人権協会事務局の朴金優綺さんに追悼文を寄稿いただいた。

「『동무찾아 강남간다』という朝鮮の諺がありますが、暴風の中、沖縄からやってきました」――柔らかい笑顔でそう話し始めた金賢玉さんと出会ったのは2012年9月、沖縄の施政権が米国から日本に移って40年の節目に、賢玉さんを迎え東京で行われた講演会の場であった。その後、対面でインタビューもさせていただいた。

そのときまで私は知らなかった。賢玉さんの何気ない言葉一つひとつが、在日朝鮮人の歴史に記録され記憶されるべきものであると強く感じ、知らずに生きてきた自分を恥じた。

忠清南道に生まれ6歳で一家離散し、30歳の年(1944年)に沖縄に連行され日本軍の性奴隷とさせられ、日本敗戦後も「どこへ行っても落ち着かん」と、沖縄の地を孤独に放浪していた裴奉奇さん。

阪神教育闘争の地・神戸で民族教育を受け、30歳の年(72年)に総聯沖縄県本部の活動家として赴任し、在沖朝鮮人の人権を守るという使命を胸に同胞を探し訪ねていた賢玉さん。

75年、奉奇さんの「過去」が「考慮」されて「在留特別許可」が出たとの報道をきっかけに二人は出会う。しかし、壮絶な沖縄戦と「戦後」の孤独をくぐり抜け、国内外のメディアから無配慮な取材を受けるたび激しい頭痛に見舞われていた奉奇さんは、身体も精神も極限状態にあった。誰が訪ねても「帰れ!」と忌避し、さとうきび畑にひっそりと建つ小屋の中で一人、包丁で鍋を打ち鳴らしては叫び、自らの首を突き刺したい衝動に駆られていた。

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