〈告発から45年~裴奉奇さんが伝えたこと〉切り開かれた道


77年4月、裴さんが本紙の取材にこたえた当時に撮影した写真

1991年8月、自身が被った日本軍性奴隷制被害について証言した金学順さんの勇気ある行動は、その後、日本の国家戦時暴力に対する責任追及と被害者救済を求める運動を世界規模で本格化させた。しかし、その10年以上も前に、自身の被害を告発した朝鮮人女性がいる。かのじょの名前は、裴奉奇。朝鮮が日本の植民地支配下にあった1914年、忠清南道・礼山に生まれ、日本の侵略戦争に伴い設置された沖縄・渡嘉敷島の軍「慰安所」で性奴隷生活を強いられた。裴さんは、その後沖縄で確認された、ただ一人の被害者であった。

日本の出入国管理政策により一方的にトラウマを暴露され、その後に続く各紙メディアからの取材で精神的苦痛に悩まされた裴さんが、顔を見せて自らの思いを初めて語ったのが、77年4月23日掲載の本紙インタビューだ。

当時、裴さんを取材した記者によれば、1970年代以降、リベラル層を中心に日本の戦争責任を問う声が社会的に増すなか、朝鮮人らに対する強制徴用や軍「慰安所」などの実態が当事者らの調査によって徐々に明るみになり、問題視されるようになっていた。

そのようななか、沖縄に性奴隷として連れていかれたハルモニが生きている事実を総聯沖縄本部からの通報で知ることになり、その後、朝鮮新報が現地取材へ行く流れになったという。

日本の侵略戦争に伴い各地に設置された日本軍「慰安所」(地図)

77年4月、記者は通報を受けてすぐに沖縄県本部に連絡。取材が可能かを確認すると、当時本部活動家だった金賢玉さん(79)から「まずは来てください。本人の口は重いかもしれないが、来て直接取材をしてください」と言われ、すぐに現地へ向かったという。

しかし現地へ飛んだ記者を迎えたのは、口を堅く閉じた裴さんの姿だった。6畳一間に台所がある掘っ立て小屋のような小さな家。裴さんが住むその家に、賢玉さんと共に向かった記者を迎えた裴さんは、「ものすごく当惑した様子で、『こいつは誰だ』とでも言うように、警戒し不機嫌そうな表情を浮かべていた」。そんななか、賢玉さんが「この人は大丈夫だから」と話しかけ、どうにか対面するも、記者の質問に対し「首を縦や横にふるだけで声も発しなかった」。それで「訪ねては引き上げて」を繰り返したという。

「最初にあいさつに行き、その後なんど訪ねても話を聞くことはできず、もうダメかもしれないと思っていた」

その後、裴さんが重い口を開いたのは、記者が通い出して4回目ぐらいの頃だった。そうして完成した記事は、裴さんの声と記憶を通じて、日本の国家戦時暴力の様相をありありと記すものとなった。

本紙に掲載された証言は朝鮮語だったが、実際の発言はすべて日本語だったという。当時の裴さんは、壮絶な日々を送るなかで朝鮮語は忘れていた。一言、二言と絞り出されるその言葉は、45年が経過したいまも記者の記憶に深く刻まれていた。

「何もかもが大変だった。心やすまる日はなかった」。

「体中の血がぜんぶ抜けていくような衝撃。恐怖で体が震えた」

「この世の地獄だ」

その他にも、過酷な重労働と栄養失調で死んでいく朝鮮人軍属の姿、米国の爆撃により犠牲となった裴さんと同じ境遇の性奴隷被害者の存在、軍人たちが連日にわたり軍「慰安所」の前に列をなし毎日数十人からの性暴力に遭う経験をしたこと、祖国解放後も、米軍の捕虜として連行され性奴隷生活を強いられたこと…。それらを語りながら、裴さんの頬をとめどなく伝う涙。記者いわく「取材後に記念撮影をした際、少し信頼をしてくれたのか裴さんの口元がかすかに緩んだ」。その一瞬のできごとに、記者は「裴さんが置かれた状況を見るようで胸が痛くなった」と話した。

国家犯罪を認めず、さらには政治・外交問題へとすり替える日本政府をはじめとする公権力によって、加害国の国家責任および被害者救済が果たされないまま現在に至る日本軍性奴隷制問題。その解決への道を切り開いたのは、被害当事者の告発に他ならなかった。

裴さんの願いと使命

生前の裴さん(金賢玉さん提供)

77年当時、沖縄在住の被害者がいることを通報したのは、72年に沖縄県本部の専従活動家として赴任した金洙燮(故人)、金賢玉夫妻。2人が赴任してすぐの頃、本部では活動家らが同胞たちを探し訪ね、沖縄中を歩く日々だった。他方で総聯では、沖縄における朝鮮人強制連行の真相究明に向けて、72年8月15日、「第2次大戦時沖縄朝鮮人強制連行虐殺調査団」を結成。それも相まって、当時沖縄に10人あまりの朝鮮人が存在し、「日本軍性奴隷制被害者もまた沖縄の地に存在したこと」を確認していた。

72年といえば、それまで米国にあった沖縄の施政権が日本へ返還された年。それに伴い、戦後「無国籍」状態にあった裴さんが日本に留まるためには、1945年8月15日以前に連行されてきたことを申告せざるを得なくなった。言葉が不自由な自身に代わって、申告のための書類を知人の助けで出す運びに。裴さんは、日本の出入国管理政策そして当時のマスコミによって、被害の過去を一方的にさらされてしまう。他方で、金夫妻もその情報を聞きつけ、すぐに裴さんを探し訪ねた。

「きれい好きで心優しい、少しワガママな所もあるアジメ(おばちゃん)だった」。賢玉さんは、裴さんをこう記憶する。

金さんが家を訪ねても、当初は警戒してまともに喋ってくれなかったという裴さん。それでも金さんたちは足を運び続け、裴さんとの交流を重ねた。

金さんたちの献身的な世話に次第に心を開き、やがて裴さんは祖国や組織についても関心を示すようになった。その過程で「日本の戦争責任をきちんと問いたい」と、日本軍性奴隷制被害者としての自身の証言を朝鮮新報に残した。

裴さんの死去を受け、91年当時に開かれた追悼式(金賢玉さん提供)

「都合のいい時にはこき使われ、いらなくなったら捨てられて。祖国にも帰れず『根無し草』だったアジメが、晩年は日本政府を怒り、祖国統一を願うようになった」。金さんは述懐する。

裴さんの告発後、沖縄県では県内145カ所にあった「慰安所」の調査が本格的に進むなど、被害者の尊厳回復に向けた動きに火が付いた。運動は次第に拡大し、県外や海外までにもうねりを起こした。

裴さんが1991年に亡くなるまでの17年間、金さんたちはかのじょに寄り添い続け、親交を深めていった。月1の食事会、ヨモギ摘み、ドライブ、温泉…。「オモニよりも裴さんとの思い出が多い」と話す賢玉さんの胸には、今も裴さんが生きている。

だからこそ、成し遂げるべきことがあると力を込める。「同じ歴史を繰り返さないよう、必ず日本の植民地支配の過去を清算しないといけない。そして、裴さんの願いでもあった祖国統一を果たす使命が私たちにはある」。やわらかくも力強い声で、金さんは語った。

(韓賢珠、金紗栄)

日本軍性奴隷制および裴奉奇さんに関する年表

※□は裴さんと関連する事項(参考・引用=在日本朝鮮人人権協会「人権と生活」35号、正義記憶連帯HP、Fight for Justice HP)

  • ■1930~1945年 日本による侵略戦争の過程で、日本軍が募集、移送、管理等行う軍「慰安所」が世界各地に設置され、日本軍性奴隷制がしかれる。朝鮮半島はじめ日本の植民地・占領地などの女性たちが甘言、強圧による軍人の性行為の相手を強いられ戦時性暴力にさらされた。
  • □1943 興南の街で日本人と朝鮮人の「女性紹介人」に騙され、60人ほどの女性たちとともに釜山から下関へと連行される。
  • □1944年11月 日本軍の輸送船に乗せられ那覇、その後渡嘉敷島へ。その他6人の朝鮮女性たちと性奴隷生活を強いられる。
  • □1945年3月23日 日本軍部隊陣地の炊事班に入れられ、戦火を生き延びる。
  • □1945年8月 日本敗戦、朝鮮解放
  • 同8月26日 米軍の捕虜となり沖縄本島の石川収容所に入れられる。その後収容所を出て沖縄中を転々として暮らす。
  • ■1972年5月 沖縄が日本「復帰」
  • □1975年10月 入国管理局へ特別在留許可を申告。これをきっかけに、日本のメディアによって日本軍性奴隷制被害者であることが一方的に報じられる。
  • □1977年4月 沖縄の総聯活動家だった金洙燮、金賢玉夫妻が場を取り持つ形で朝鮮新報の取材を受ける。3日間の取材期間に、朝鮮半島出身の被害女性として初めて自身の被害を告発。
  • ■1991年8月14日 金学順さんが南朝鮮で初めて被害女性であることを証言。その後、南社会で日本軍性奴隷制問題解決を求める運動が本格化。
  • □同10月18日 裴さん死去