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〈4.24教育闘争75周年〉脱植民地化としての民族教育/呉永鎬

2023年04月24日 00:00 民族教育

「悲しい亀裂」を生まないために

「私たちはこの悲しい亀裂を避けることができなかった」――。1932年、山口県下関市で生まれた高史明は、「失われた私の朝鮮を求めて」と題した論考で、自身と父との関係をこのように回顧している(『言語生活』第239号、1971年)。3歳の時に母親を亡くし、3つ上の兄と、石炭仲士として生計を立てていた父と暮らしていた。父は日本語を使おうとしなかったが、すでに日本の学校に通っていた史明に「朝鮮語の種」は植えつけられておらず、「朝鮮語の世界と完全に絶縁した世界」を生きていたという。ある夜、父が天井から首を吊って自殺を図った。はね起きた2人の兄弟は父の死を必死に食い止める。子どもたちは死なないでくれと日本語で叫び、父は生き続ける絶望を朝鮮語で語っていた。家族の命運が左右される切迫したこの瞬間にも、親と子の意思が十分に疎通しない。そればかりでなく、「死んじゃいやだ」と日本語で叫ぶ子の声は、父の耳にはむしろ逆の響きを伝えていたかもしれない…。親と子の間に生じた圧倒的な隔たり、「悲しい亀裂」。史明たちのような家族は無数にあったに違いない。

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