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〈続・朝鮮史を駆け抜けた女性たち 41〉光海君をめぐる宮女たち-韓保香と「貴妃」(17世紀)

2012年07月05日 16:28 文化・歴史

たとえ廃位になろうとも

忠誠心の行方

王族と運命を共にした宮女たちは、最後まで忠誠を尽くした者とそうでない者がいる。光海君の宮女というと金介屎(キム・ゲシ、連載2010.9)が特に有名だが、他にも光海君を取り巻く多くの宮女たちが歴史の荒波に呑まれていった。彼女らは後世に色々と「評価」されるが、それは一面的なことに過ぎない。

尚宮が着ていた衣服

1623年、朝鮮王朝第15代王光海君は政治的信条が異なる政治派閥により王位を簒奪され、その宮女たちの多くは命を落とすことになった。だが、淑媛(内命部従4品)の位にあった宮女韓保香(ハン・ボヒャン)は80歳の長寿を全うし、野史や説話の中だけではなく複数の記録に彼女への賛辞が躍る。王位を簒奪した後の仁祖の朝廷にあって、彼女はなぜその命を長らえ賛辞を贈られたのだろうか?

韓保香は頑固な人であった。自らの命が危ぶまれる局面でも、王―光海君を裏切ることはなかった。王位簒奪の際、多くの廷臣や宮女は逃げ出したが彼女は最後まで王妃柳氏の傍を離れず、反乱軍に見つかってしまった時も兵士に対してこう言い放ったという。

「主上はすでに王位を追われたが、今日のこの反乱はこの国のためなのか?それとも己の欲のためなのか?」

その堂々たる物言いと変わらぬ忠誠心を買われ、彼女は仁祖即位後も宮女としてい続けることになる。遠流に処されてしまった光海君を思い涙していると、若い宮女にたしなめられたという逸話は興味深い。

「お前も廃王に恩を受けたというのに、今になって裏切ろうというのですか」と憤る彼女の言葉を仁祖妃に告げ口した若い宮女は、かえって王妃によってしたたかにふくらはぎを打たれてしまう。王妃は韓保香の忠誠心に心を動かされ、「国家の盛衰は無情なもの。わが君もいつ何時光海のような目にお遭いになるとも限らない。お前のその忠誠心を信じ王子の養育を任せよう」と、高く評価したという。人生とは分からないものである。

宮女の写真

廃王光海君をたしなめる

一方同じ宮女でありながら、光海君遠流の際に済州島まで運命を共にしなければならなかった「貴妃(クィビ)」と呼ばれた宮女は、歯に衣着せぬ物言いで今でも「猛々しく狡猾」と称されることがある。「貴妃」の本名は伝わらず、側室であったのかも定かではない。

1637年、済州島に流された光海君は63歳になっていた。共に流された宮女のうち、「貴妃」はずけずけとものを言ったようである。

「貴妃、こやつめ。お前をあんなにも大事にしてやったのにその言い草と態度はなんだ」と叱る光海君に、彼女はこう反論したという。

「態度ですって? 過去のご自身の態度を顧みられてはいかがですか?もしもう少し政をまともになさっていたら、こんなことにはならなかったでしょうに。側室や官吏に賄賂さえ渡せば官職の売買は簡単だったと言いますわ。それをなぜ放っておき民心が離れるままにしておいたのです。そんな失政によって廃されてしまったのは自業自得ですが、何の罪もない私たちはなぜこんな島まで流されて苦しまなくてはならないのですか」

光海君は二の句が継げなかったという。

「忠誠心」の行く末

心変りは今も「悪」とされることが多く、一途な行いや想いは賛美の対象になることが多い。

韓保香は確かに命を賭して光海君のために行動し、その行く末を案じて悲しみに暮れた。だが、王位の「簒奪者」に称賛され、その「子」の面倒を見る宮女に任命されるや涙を流して感謝するのだ。金介屎のようにただひたすら光海君にのみ忠誠を誓い死んでいった宮女とは異質であり、また、現実を鋭く突いたリアリスト「貴妃」とも大きく違う。後世に「悪女」、「毒婦」、「猛々しい」、「不遜な」と罵られる彼女らは、後期朝鮮朝にあってまだ「早すぎた」女性たちなのである。女が物事の本質を突き、「愛」だけのために生きることは「不遜」なことであり、あってはならないことであった。その点韓保香は、ただひたすら「封建的な道徳」に忠実である。光海君に忠誠を誓ったなら、王位を簒奪した側からの申し出は断ってしかるべきなのに、彼女は自害することもなく申し出を「喜んで」受けるのである。誰が「不遜」で、誰が「不実」で、誰が「裏切り者」なのか、ある一面だけを取り上げても真実は分かりづらく複雑である。

(朴珣愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)

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