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〈続・朝鮮史を駆け抜けた女性たち 42〉王が政治的ライバル、政治に熱心だった姫君-和緩翁主

2012年07月31日 13:27 歴史

父王の溺愛

和緩翁主(ファワンオンジュ=1737~1808)は朝鮮王朝第21代王英祖の娘であり、米櫃に閉じ込められ餓死した思悼(サド)世子の実妹であり、22代王正祖の叔母でもある。

和緩翁主と夫鄭致達の墓

父王英祖は、和緩翁主を溺愛するあまり彼女が出産する折にその家を訪問、公務の帰りには彼女の家に寄るという前例のない行動を取り度々物議をかもし、また首席で科挙に合格した彼女の義兄(夫の兄)に多くの特権を与え、彼女の夫が夭逝するや国葬のような葬儀を敢行、これに反対した臣下達を罷免したという。(「朝鮮王朝実録」88、89、112巻)

また、思悼世子の妻である恵慶宮洪氏が書いた「恨中祿」(ハンジュンロク、宮中に10歳で輿入れしてからの50年間を回顧し記録した随筆)には、英祖の和緩翁主への偏愛を「天倫に悖る奇愛」と表現し、夫が米櫃に閉じ込められ殺されてしまったのはまるで彼女のせいだと言わんばかりの強い口調で、自分と夫が彼女から受けた数々の誹謗、中傷や陰謀について口をきわめて罵っている。

和緩翁主はしばしば映画やドラマ、小説で父王の溺愛の結果高慢でわがままな性格になったというプロトタイプに描かれることが多いが、「わがまま」で世継ぎである兄夫婦を亡き者にしようとするのだろうか。

和緩翁主は翁主―「姫君」でありながら積極的に政治の世界に乗り出し、自らが属した政治派閥のために実の兄を密告、弾劾、甥―王を政敵として追い落とそうとしたと言われる。

「恨中祿」筆写本

実兄、思悼世子との関係

思悼世子は当時の政治的最大派閥と対立したため、そのエキセントリックな性格が災いし世継ぎでありながら陥れられ、最後には米櫃に閉じ込められ餓死してしまった王子である。和緩翁主は思悼世子の実の妹でありながら政治的主張が異なる兄の奇行を父王に密告、彼を追い落とすことに熱心だったという。そもそも兄思悼世子のエキセントリックな性格は、父王英祖の子らに対する偏愛のせいだといわれることが多い。翁主を偏愛したという英祖は、世継ぎの王子である思悼世子に対しては一貫して冷淡だった。翁主達が訪れた時、わざわざ着替えて彼女らを迎えたという王は、思悼世子が訪れたときは着替えもせず、「食事はしたのか」と自ら聞いておきながら、世子が答えると「耳が穢れた」と言い耳を洗ったというからその偏愛ぶりは尋常ではない。

和緩翁主は夫鄭致達(チョン・チダル?∼1757)が子もなく夭逝した後、その鄭家から鄭厚謙(チョン・フギョム1749~1776)を養子に迎え、派閥のためにあらゆる陰謀に加担する。彼女は悪魔のように頭が良いと称された養子鄭厚謙を押し立て、兄思悼世子のみならずその死後王位継承権を継いだ甥である世孫―正祖(イサン)に挑むのである。

王になりたかった?

「恨中録」には正祖が即位初期、母方の祖父母を誤解し遠ざけたのは、母の実家と正祖を仲たがいさせるために和緩翁主が色々と画策し、王の母である自分を無視し自分(和緩)が王の母になろうとしていたからだと断じている。

ところが一方で和緩翁主は、正祖(イサン)を自身の政敵として政治的対決もいとわなかったというから、王に取って替わろうと思っていたのだろうか。ドラマでは貞純王后が正祖(イサン)の主たる 敵として描かれているが、実際は叔母である和緩翁主が正祖の政敵であったのだ。宮中の女性が政治派閥に属し中心的な役割を担うことはドラマの中のフィクションではなく、朝鮮王朝中期を除きその初期と後期に見られ、「王后政治」と称されるほど政治に介入しその権勢をふるったという。確かに、英祖の後添いであった貞純王后(和緩翁主の継母)は英祖、正祖亡きあと摂政政治を布き自らを「女君主」と称したというから、和緩翁主が王位を夢見たとしてもおかしくはないだろう。

だが彼女は正祖在位中に失脚、遠流に処され朝臣達の度重なる極刑要求にも正祖は首を縦に振らず、ついには許され宮中でまた生活するようになる。

「奇愛」とまで言われた父王の偏愛、兄弟間の愛憎、父王による息子の殺害、叔母と甥の権力闘争、それを許す甥。矛盾に満ちた不可解な家族の中、和緩翁主の抱えた闇は一体何だったのだろうか。

( 朴珣愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)

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