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「最期まで日朝国交に執念燃やした清水澄子さん」 /60年共に闘った、山村ちずえさんに聞く

2013年04月03日 15:51 文化・歴史

歴史を見据え、政治の場で発言・行動をし、広く社会変革の先頭に立ち続けた清水さん。その清水さんの最も古くからの友人の一人が山村ちずえさん(兵庫朝鮮学校を支える女たちの会会長、朝鮮問題を考える兵庫婦人の会事務局長)である。昨年11月17日、京都の講演会に出席する清水さんが兵庫県の自宅に泊まった時のできごとについて触れながら、「咳と痰が止まず、ティッシュがすぐなくなるような状態だった。しかし、翌日の講演本番では90分間、水も飲まず、咳もせず日朝関係についてとうとうと話し続けた。あれはまか不思議。信念を通り越して執念を感じた」と話す。

60年来の友人、山村ちずえさん

5歳年下

山村さんは79歳。清水さんの5歳年下で、2人のつきあいはすでに60年近くになるという。「彼女がまだ結婚する前、1950年代の初期、福井県評の書記局にいた頃からの知己。私は兵庫県評の書記局員だった。60年には総評主婦の会結成を共に担って、60年安保も共に闘った。女性解放運動から日朝国交正常化運動、従軍慰安婦問題、戦後補償問題、北と南、日本の女性たちが朝鮮の統一をめざして開いた『アジアの平和と女性の役割』シンポ、朝鮮の統一、朝鮮学校への支援などあらゆる市民運動…。清水さんとの思い出は尽きない」と話す。とりわけ、阪神・淡路大震災時に、スニーカーを履いて、在日の人たちが暮らす長田のゴム工場街を一緒に歩いたこと、全壊した朝鮮学校に私学並みの助成金を得るため国会でどれほど頑張ったかについて触れ、「神戸の人、在日の人は彼女のことを決して忘れない」と力をこめた。

清水さんは、田中寿美子さんを団長に1978年に初訪朝したが、山村さんは翌年に訪朝。主席生誕80周年、04年ピースライン訪朝団などこれまで14回一緒に訪朝したと振り返る。そして、清水さんが74年、日本婦人会議の中に作った「朝鮮女性と連帯する日本婦人連絡会」の地方組織の一つとして、76年、山村さんを中心に兵庫で結成されたのが「朝鮮問題を考える兵庫婦人の会」だった。2人は中央と地方でお互いを支えあい、共に朝鮮問題と格闘し続けた。そんな中、休むことを知らない清水さんに、約20年ほど前、内モンゴルに星空を見にいこうと誘ったのも山村さんだった。「ただでは帰らないのが清水さん。せっかくきたからと内モンゴル自治区の学校を9時間もバスに乗って見に行った。そこで知った子どもたちの劣悪な劣悪な教育環境の実態に心を痛め、帰国後、各方面に働きかけODAなど手厚い支援の手を差しのべ、ついには現地に新しい中学校2つと幼稚園を造った」。

差別を憎んだ

清水さんは生前、軍国主義と男尊女卑の風潮の中で抑えつけられ、学ぶ機会を奪われた戦争体験や大阪大空襲で幼い妹と逃げ惑った悲惨な記憶が政治と運動の原点だと語っていた。山村さんにも似たような体験がある。

「私の出身地は大分県の片田舎。幼い頃、近所に朝鮮のおばちゃんが暮らしていて、私は大好きだった。そのおばちゃんの家に泊まりにいくとフワフワのふとんに寝かしてくれて…。おいしい朝鮮料理もごちそうしてもらった。ところが、村人たちはおばちゃんが朝鮮人だと蔑んでいた」。そんな山村さんに人として、理不尽な差別をしてはならないと教え、諭したのは祖母だったという。

いま、山村さんの一番の気がかりは、マスコミの朝鮮報道だ。「今の日本は戦争中とちっとも変わっていない。朝鮮戦争の停戦協定から60年となる今年、ステルス戦闘機までも動員した米韓合同軍事演習を繰り広げながら、相変わらず、核を含む膨大な戦力で北を脅している。しかし、それを日本のメディアは、北を好戦国のように仕立て、実態とは正反対のウソを流し続けている。それにみながだまされてしまって、真実の姿が見えなくなっている」

女性運動や平和運動を共に闘った仲間のなかでも、「北をこわい国」と思っている人がけっこういると話す。こうした日本の思想、社会状況の激変は、ガンとの闘病を余儀なくされた晩年の清水さんを苦しめたと慮る山村さん。

「夜、時々電話がかかってきてね、『いま話していい?』と。今でも、電話が来るような気がしてならない。そうした日本の右傾化の流れを断ち切って、必ず、日朝国交正常化を実現しなければと最期まで、執念を燃やし続けていた。約60年、そばで見てきたが、本当に、すごい人だった」。

(朝鮮新報)

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