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〈記憶を歩く〉大阪・在日朝鮮人1世/文昌範、高貞順さん夫妻(93、90)

2024年11月25日 09:27 記憶を歩く

祖国解放から今年で79年、在日同胞コミュニティーの形成初期を知る多くの同胞たちがこの世を去った。それは同時に、祖国の分断に苦しみ、植民地宗主国・日本に暮らすという構造的抑圧のなかで生涯を終えた朝鮮人たちが数多く居ることを意味する。このような先代たちの記憶と営みは、明日を担う次世代が、自分たちのルーツについて考え、または向き合った際、欠かせない視点となるのではないか。そしてかれらの声を記録することは、同じルーツをもつわたしたちの役目ともいえるのではないか―。【連載】「記憶を歩く」では、今を生きる同胞たちの原点ともいえる在日朝鮮人1世たちの声から、「ウリ(私たち)」の歴史を紐解く。

“トンネがあったから生きられた”

昨夏に始まった本連載を通じて、これまで7人の在日朝鮮人1世を紹介してきた。かれ・かのじょたちが語るそのどれもが歴史の一部なのだが、一方でその声は、記録されず、または記録できなかったために、「公式」には刻まれていない歴史がこの世に溢れていることを気づかせてくれる。昨年の今頃、大阪で出会った文昌範、高貞順さん夫妻の体験もそうだった。

石の島の記憶

文昌範、高貞順さん夫妻。孫の文梨詠さんと共に

近代以降、植民地宗主国であった日本と朝鮮半島との間には、両国を結ぶ定期航路が開設された。下関と釜山をつなぐ「関釜連絡船」がよく聞くところだが、主要航路のもう一つに済州島と大阪をつなぐ連絡船があり、この船は1920年代前半から45年までの間、たくさんの人やモノの移動・運搬手段となった。杉原達著『越境する民―近代大阪の朝鮮人史研究』(1998)によると、1934年時点で日本在住の朝鮮人53万7 695人中、済州島出身者は5万53人で、そのうち3万7938人が大阪に暮らした。さらに、それから40年後の1974年時点では、在日朝鮮人63万8806人中、10万1378人が済州島出身者で、そのうち 6万3972人が大阪に暮らしていたと記録されている。このほとんどが、既述の済州島―大阪航路で渡日した人々であり、その子孫たちである。

言わずと知れた日本最大のコリアタウンがまたがる一帯、大阪市東成区。この地で暮らして半世紀を優に超えた文昌範、高貞順さん夫妻も、故郷・済州島から連絡船に乗り、大阪へと渡ってきた。

1931年、済州道涯月面水山里で貧農の家に生まれた文さんは35年2月、自身が4歳の頃に母親と共に海を渡った。当時既に日本で金属加工の仕事に就いていた父親を追っての渡日だった。8人きょうだいの長男で、文さんだけが朝鮮生まれ。幼かったため故郷での思い出はほとんどないが、「村の柿の木の下で、よう歌を歌っていた」ことは、文さんがふとした時に思い出す原風景だ。

一方の高さんは、済州空港と隣接した地、済州市龍潭里で1934年、4人きょうだいの次女として生まれた。文さんと異なるのは、その後、満8歳という年齢で日本に渡ってきたため故郷での記憶が鮮明なことだ。

「家から出てちょっと行ったら池があって、そこで近所の人たちが皆で菜っ葉を洗ったりしたな。それから畑でとった麦と粟でご飯を炊いて、石の山みたいな(食卓代わりになる)ところがちょこちょこあるねん。そこに持っていって皆で囲んで食べたりした。家言うても、塀は石積みのつくりや。だから向こう側がみえるし、竈のある台所には贅沢なものはあれへん。動物のかわいた糞を拾ってきて、それを燃やしてオンドルパンを暖めたわ」(高さん)

当時、貧しい生活の中でも、幸せを感じるひと時があった。仕事のため先に日本に渡った父親から、子どもたちにと、年に1度送られてくる小包だ。「石の島やから靴は10日も履いたら糸がきれてダメになる。アボジからの小包に靴が入ってたときは嬉しいて嬉しいて仕方なかった。それを履いて近所を走り回ったわ」と高さん。そんな高さんも1940年頃、父親を頼りに母と姉、弟と4人で連絡船を乗り大阪港へと向かった。

激動の中で

1948年に行われた民青鶴橋分会行事

高さん一家が渡日した当時は太平洋戦争が始まって間もない頃だった。それから約1年後、結核を発症した実父は34歳の若さで亡くなり、その2週間後に高さんの妹が生まれた。

「オモニは農村で苦労した人で、それに昔は男が大事にされたから、ごちそうがあれば息子にばっかり余計にやっとった。そんなオモニに、ある時アボジが『そんな息子ばっかりやらんと、女の子らも皆分けて食べ』と言っていた。昔では珍しい平等で優しいアボジやった」。

一方、大阪でも空襲の影響が広がりはじめると、一家は和歌山の方へ疎開した。しかし、その先で待っていたのは「虐め」である。「にんにく臭いとか、チョーセン野郎と言ってな。学校には行ってないけど村の子どもたちが虐めるんや」(高さん)。

植民地支配から朝鮮が解放された45年8月以降、大阪へと戻り「桃谷にあった朝鮮学校に6年間通った」という高さん。「字を見てもすぐにわかる人は、ものすごく羨ましいねん」と語る高さんはその後、3つ違いの姉と共に、幼くして家計を支える働き手となった。

文さん所有のアルバムには、鶴橋中一分会事務所建設に精を出す同胞たちの姿があった。(年代不明)

一方の文さんは、どんな生活を送っていたのだろうか。

「空堀というところの長屋に住んでいた。日本人はあまりいない。チョソンサラムがたくさんいた。自分の家は二間で、本当に寝るだけや。表に出ると、陸軍墓地の横に広い遊び場があって、そこでよう遊んだ」(文さん)

長屋での生活について筆者が文さんに尋ねると「汲み取り式の共同便所が一番嫌やった」と顔をしかめた。今でこそ「昔の街並みが残るレトロスポット」と言われる街だが、当時はインフラが整備されていない朝鮮人が多く住む一帯だった。

文さんはその長屋を生活拠点に地域の小学校に通った後、旧制中学に進学したが、同校は空襲で焼けてしまい中退したそうだ。

戦時中、学徒動員の経験もした。

「勉強ができると聞いて高井田の工場に行ったものの中身は仕事。働いても給料はくれんし、ある時、米国の飛行機が落ちてきたことがあった。アメリカ人が死んでるのに、そこに来た日本人が、死んだ人間に石を投げるんや…」。当時の衝撃的な光景に「日本人への不信感」を抱いた文さんは、その状況に耐え切れず、飛び出した。瓢箪山にあった親戚宅に一時居候したが、そこにも長くは居られず歩いて鶴橋へと向かっていたある日「アボジとばったり会った。アボジが『来い』と言うから向かった先がいまの鶴橋の家や」。

同時期、文さんも母方の親戚を頼りに鶴橋へと生活拠点を移していた。

激動の10代を送った2人は、偶然にも長屋の隣同士で住むことになり、その縁から結婚に至った。「縁があっての夫婦やったんやろな」。文さんは、そう言って大きく笑ってみせた。

1世が語る事実

約30年間営んだ居酒屋「味奈味」

町工場が多い街で知られる鶴橋で、結婚後、文さんは、高さんの母親に背中を押されプラスチック業をはじめた。塗り薬の蓋をつくる下請けにはじまり、「プラスチック製のヒールをつくったのは私が一番や」と文さん。それまではブナの木が使われることが多かった靴のヒールは、現在そのほとんどがプラスチック製だ。文さんの工場は、一時軌道に乗るも、その状態が長く続くことはなかった。そして95年の阪神・淡路大震災を機に「長田の得意先が皆つぶれてしまいダメになってしまった」。

そんな文さんの傍で、高さんは、家計を支えようと一念発起し居酒屋「みなみ(味奈味)」を開業する。52歳で始めたという店は、その後約30年間営まれた。総聯東成支部のすぐ近くという立地から、地域の同胞たちが足しげく通う場所だった。

かつて生野西朝鮮人商工会の非専従会長を務めた文さんと、女性同盟分会で分会長を務めた高さんは、これまでの人生を振り返り「大阪のトンネがあったから、逞しく生きられた」と口をそろえる。

居酒屋「味奈味」は地域の同胞たちが足しげく通う場所だった。

「チョソンサラムが多いから、同胞たちが居ることが力になっていた。生活やってそうや。田舎へ買い出しに行き買ってきた芋や米も、トンネの人たちに分けて、少しの利益をもらいながら生きてきた」(高さん)。トンポトンネの支え合いで、同胞たちの生活が成り立っていた。

インタビューの終盤、文さんの声に力が入る場面があった。次世代への思いを聞いたときだ。

「やっぱり民族性は守ってほしい。先祖の生い立ちとか、日本が植民地化した時のわれわれの苦しみとか。そういったものを、ひとつの事実として歴史の中で忘れられないように、やってくれたらいいなと思ってます」

(韓賢珠)

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