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〈記憶を歩く〉兵庫・在日朝鮮人1世/韓甲殖さん(89)

2023年09月25日 10:27 記憶を歩く

1人で渡った異国の地

※年齢は取材当時のもの。今年8月24日に死去

祖国解放から今年で78年、在日同胞コミュニティーの形成初期を知る多くの同胞たちがこの世を去った。それは同時に、祖国の分断に苦しみ、植民地宗主国・日本に暮らすという構造的抑圧のなかで生涯を終えた朝鮮人たちが数多く居ることを意味する。このような先代たちの記憶と営みは、明日を担う次世代が、自分たちのルーツについて考え、または向き合った際、欠かせない視点となるのではないか。そしてかれらの声を記録することは、同じルーツをもつわたしたちの役目ともいえるのではないか―。【連載】「記憶を歩く」では、今を生きる同胞たちの原点ともいえる在日朝鮮人1世たちの声から、「ウリ(私たち)」の歴史を紐解く。

生き抜く術を学ぶ

「わしやがな」。総聯兵庫・宝塚支部の全仁成委員長と韓甲殖さん(同支部顧問)の自宅を訪ねた5月下旬、支部同胞たちと共に写真に写る若かりし頃の自分の姿を見ながら、そう言って笑った。

支部会館前で同胞たちと(写真中央左が韓さん、総聯支部提供)

1934年、朝鮮半島南東部に位置する釜山・甘川里で、貧農の家に生まれた韓さん。当時、列車で1時間強の距離にある密陽には、父方の親戚たちも暮らしており、かれが記憶する幼少期の鮮明な思い出に「たくさん居た親戚の家をよく訪ねたこと」があった。「ある日は港に出て大人たちとマグロを釣ったこともある」と自慢げに話してくれた。

1942年、韓さんがちょうど小学校1年生にあがる頃だった。突如として両親を亡くし、韓さんを含む3人のきょうだいたちは、親戚にそれぞれ引き取られることに。そんな流れから、韓さんは日本に住む母方の親戚を頼りに、1人関釜連絡船(05年から45年まで運航した釜山―下関間の定期船舶路線)に乗りこんだ。当時船には、近隣に住んでいた朝鮮の人々が多く乗船していた。日本に到着後、韓さんが行きついた先は、おばの娘が住む京都・堀川。右も左もわからない異国の地で、「コチュカルチャンサ(唐辛子粉売り)の合間を縫って、立派な織物をつくっていたその娘さんから必死に勉強を学んだ」。当時を振り返り「きょうだいたちとは連絡なんてとれる状況じゃなかった」と語るほど、生き抜く術を学ぶため、勉学に励んだのだった。

韓甲殖さん

それから約2年が経ち、飯場を営む知人を頼りに東舞鶴へと移り住んだ韓さん。しかし行ってみると、

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