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〈記憶を歩く〉愛媛・在日朝鮮人1世/鄭泰重さん(91)

2024年01月04日 06:31 記憶を歩く

後悔の無い80年間

祖国解放から今年で78年、在日同胞コミュニティーの形成初期を知る多くの同胞たちがこの世を去った。それは同時に、祖国の分断に苦しみ、植民地宗主国・日本に暮らすという構造的抑圧のなかで生涯を終えた朝鮮人たちが数多く居ることを意味する。このような先代たちの記憶と営みは、明日を担う次世代が、自分たちのルーツについて考え、または向き合った際、欠かせない視点となるのではないか。そしてかれらの声を記録することは、同じルーツをもつわたしたちの役目ともいえるのではないか―。【連載】「記憶を歩く」では、今を生きる同胞たちの原点ともいえる在日朝鮮人1世たちの声から、「ウリ(私たち)」の歴史を紐解く。

9月下旬、愛媛県松山市南斎院町の山を少し登った場所に位置する四国初中で、総聯愛媛県本部の高正範委員長と待ち合わせた。高委員長の車で学校を出発し、坂を下ると5分程で鄭泰重さん(同本部顧問)の自宅に到着した。ちょうど昼食を食べはじめたところだった鄭さんと、鄭さんの妻である李貴点さ(82)が笑顔で「よく来たね」と迎えてくれた。

鄭泰重さん

1932年4月24日、慶尚北道慶州郡で生まれた鄭さんは、幼少期を過ごした故郷が「とにかく自然が綺麗な場所」だったと回想する。自身が生まれた当時、実家は小作農で、日本の植民地支配下、10年代に実施された土地調査事業の影響から、田畑や土地は奪われ、「毎日が食べることで精一杯。死なないことが不思議なくらい」だったという。

43年、当時11歳の鄭さんは苦しい生活を理由に故郷を離れた。5年先に日本に渡った父親を追って渡日した鄭さんは、広島と島根の県境にある十方山の製鉄所で炭焼きをやっていた父親と再会。近隣の村から8km離れた、電気も水道もない山奥での生活を送ることになった。父を含む人夫12人のうち8人が同胞だった。当時、徴兵を恐れた父親がやっていた炭焼きもまた軍の仕事で、「強制労働のようなものだった」と鄭さんは語った。

渡日から2年後、45年8月6日、広島に米国の原爆が投下され、近隣の町の堰堤が破壊された。ただ当時、山奥に住んでいた鄭さんたちを含む同胞家族らは、それが原爆投下によるものとは知らなかった。そして15日、鄭さんらは日本で祖国解放を迎えたが、同様の理由で解放の事実を直ぐに知ることが出来ず、その知らせを受けたのは、約1ヵ月が経つ頃だった。「ここに居れば殺される」からと、同村に暮らしていた同胞たちは皆、朝鮮へ帰るため広島県を離れたが、その頃には祖国に向かう船がなく、帰国の道は閉ざされていた。

鄭さんは46年、14歳のときに朝聯の初等学院に入学した。しかし、48年1月24日、鄭さんの在学中に連合軍総司令部(GHQ)の指示のもと、文部省(当時)が「朝鮮人設立学校の取扱いに関する文部省学校教育局長通牒」を各自治体へ発出。朝鮮人学校の強制閉鎖の方針が示された。鄭さんを含めた学生たちは反対闘争に臨んだが、同年10月、学院は閉鎖を余儀なくされた。鄭さんは当時の闘争を「同胞も学生も必死になって闘った。抗議のために訪れた文部省の前で『金日成将軍の歌』を歌ったことは今でも覚えている」と振り返った。

8年間の監獄生活

当時の朝青員たちとの写真(中央が鄭さん)

その後、朝連が強制解散(49年9月)させられ、在日朝鮮解放救援会(朝連解散後、同胞たちにより設立され暫定的に機能した合法組織)の連絡員として、不当逮捕された同胞たちの状況を地域の活動家たちに随時伝える「レポ係」として活動した。

しかし、50年5月3日、鄭さんもまた不当逮捕の当事者となる。各地では、当時、勃発寸前であった朝鮮戦争に反対し、日本共産党の方針のもと、火炎瓶で軍需工場などを襲う「火炎瓶闘争」が盛んに展開された。そこに朝鮮人青年たちも多く参加しており、鄭さんは、広島であった同種事件の容疑者として逮捕されたという。

監獄生活を送ることになった鄭さんは、同胞からの手紙や面会などを通じ同胞社会の動きを追った。その最中で、鄭さんは「日本の革命のためではなく、どこにいても朝鮮の革命のために生きよう」という金日成主席の教えに触れ「感動したことを鮮明に覚えている」と話す。それを大きなきっかけに、55年に結成された総聯組織と共に歩むことを決めた鄭さんは監獄から解放された27歳のとき、総聯第4回大会(58年5月)に参加。その後、朝青活動に没頭するようになった。

8年間の監獄生活を送った鄭さんは「青春は監獄の中だった」と冗談を交えながら「あの頃、『権力はでたらめ』だと骨身に染みて思った。最もしんどかったのは同胞や組織の人々に会いたくても会えないこと、本当に恋しかった。拘束された身では勉強も組織生活も何もできなかった」と語った。

出獄後、鄭さんは、総聯結成後の草創期、支部や分会を組織するために、朝青の専従活動家として同事業に注力。その後も、95年に63歳で顧問として一線を退くまで、総聯広島県本部、総聯愛媛県本部で本部委員長を務めるなど、文字通り組織と人生を共にした。

鄭さんは自身の活動を振り返り、「成し遂げたことは少なかったかもしれないが、生涯をかけて一生懸命やってきたので、これっぽっちの後悔もない」と語った。

植民地の過去“忘れてはならない”

左から李さん、鄭さん、高委員長で記念撮影

この日、李さんが本部委員長と筆者のために料理を振る舞ってくれた。食卓には、梨と大根の水キムチや白身魚のチョンなどの朝鮮料理も並んだ。

鄭さんは毎日、朝昼晩のご飯を欠かさず食べるという。昼食は決まって山盛りの茶碗を平らげ、夜にはビールや焼酎などのお酒を嗜むのが鄭さんの日課だ。この日も、シラス、明太子、納豆を混ぜ合わせ、それを山盛りの白米の上にかけて完食した。日頃からご飯をたくさん食べることが、御年91歳である鄭さんの長寿の秘訣なのだろう。

そんな鄭さんが次世代の同胞たちに伝えたいことは「植民地支配の辛さを忘れてはならない」ということだ。鄭さんは「国も言葉も土地も奪われ、衣食住が不安定な生活を強いられた。若者たちがその辛さを直に知ることはできない。だからこそ、あんなに辛いことは無いということを伝えたい」と語った。

そして、鄭さんは植民地支配の歴史を繰り返さないための指針が、金日成主席の思想、チュチェ思想であるとし、「思想における主体」「政治における自主」「経済における自立」「国防における自衛」の4つの原則を朝鮮語で力強く呼称した。「チュチェ思想の精神に倣い、祖国、民族を忘れずにいることが大切だ」(鄭さん)。

鄭さんの人生が集約されたアルバム

この日、李さんが見せてくれた分厚いアルバムには、朝青員として活動に勤しむ若かりし頃の鄭さんの写真などが収められていた。祖国を離れ、異国の地で80年を生きた鄭さんの人生が集約されていた。

アルバムにはたくさんの家族写真も。鄭さんは「孫たちはみな朝鮮学校に通い、卒業後は専従活動家として頑張っている。かれ・かのじょらがこの上ない自慢だ」と笑顔で話した。

また、鄭さんは「わたしたち1世が奪われたものを取り戻すために作ったのがウリハッキョだった。在日同胞の運命は次世代の若者たちに託されている。ハッキョを守り続けてほしい」と語った。

(朴忠信)

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