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〈記憶を歩く〉兵庫・在日朝鮮人1世/文水範さん(89、兵庫県同胞長寿会会長)

2024年05月07日 08:00 記憶を歩く

祖国解放から今年で78年、在日同胞コミュニティーの形成初期を知る多くの同胞たちがこの世を去った。それは同時に、祖国の分断に苦しみ、植民地宗主国・日本に暮らすという構造的抑圧のなかで生涯を終えた朝鮮人たちが数多く居ることを意味する。このような先代たちの記憶と営みは、明日を担う次世代が、自分たちのルーツについて考え、または向き合った際、欠かせない視点となるのではないか。そしてかれらの声を記録することは、同じルーツをもつわたしたちの役目ともいえるのではないか―。【連載】「記憶を歩く」では、今を生きる同胞たちの原点ともいえる在日朝鮮人1世たちの声から、「ウリ(私たち)」の歴史を紐解く。

勉学を極めた先に見出した未来

待ち合わせ場所だったJR姫路駅前、おしゃれなシャツとジャケット、ハット帽をかぶり、ひと際着飾った男性が歩いてきた。筆者が新報記者であることに気づくと、「こんな遠くまでよく来たなぁ」とニッコリ。声の主は、兵庫に住む在日朝鮮人1世、文水範さんだ。

劣等感抱いた被差別体験

2024年現在、存命の1世たちの多くが、約10年前とは異なり自身が物心つく前に渡日している。そうした状況も相まって、かれかのじょたちが語る個人史は、故郷での思い出以上に、渡日後の被差別体験や厳しい生活のエピソードが少なくない。この日の文さんもそうだった。

文水範さん

1935年、慶尚南道・河東郡に生まれた文さんが故郷で過ごしたのは、それから約2年の間で、2歳になる37年春、母と姉、2人の兄と共に、大分市で暮らす母方のおじを訪ねて、連絡船で日本(下関)に渡ってきたという。そのため故郷について「過ごしやすい場所だった」ということ以外に、故郷について実感を伴う思い出はほぼなく、両親からも朝鮮での話を長らく聞いたことがなかったそうだ。

一方、文さんが家族たちと渡日した際、一緒にいなかったかれの父はというと、当時既に徴用で日本にわたっていた。後に文さんが聞いた話によると、現在の大分県豊後大野市(旧大野郡)に位置する錫鉱山・尾平鉱山がその徴用先だった。

産出される錫は、かつて通貨の鋳造に使用されるなど日本の主要・錫鉱山の一つだった尾平鉱山。文さんの父親が徴用された30年代は、ちょうど三菱鉱業(現三菱マテリアル)が経営に携わるようになり(35年~)、設備の近代化や探鉱による産出量の増加によって同鉱山が「最盛期」を迎えていた頃だ。戦争期の日本を根幹から支えた鉱山資源や軍用機といった兵器製造を担っていた三菱は、戦時下の労働力不足に伴い、鉱業や重工業の現場に多くの朝鮮人・中国人を連行、抑圧と搾取の労働を強いたのだった。

そんな環境で働いていた文さんの父親は、仕事後に酒を飲んで家に帰ってくると暴れたり、時には帰ってこないこともあった。「ある時は寝ていたのに叩き起こされたり、追い出されて外でわなわな震えたこともある」(文さんの日記より)。

文さんは当時を回想し、「入学した地元の小学校で皇民化教育を受け、差別や蔑視を受けた。それに加え、いつも目にする父親の姿から、朝鮮人であることへの劣等感を抱きながら育った」と打ち明ける。

劣等感につながる経験は、一つや二つではなかった。

「小学校ではよくケンカになり、日本人の同級生から『お前、ニンニク臭い』と度々言われた。それに朝鮮の歴史などを扱った授業の日は、心理的に委縮した。当時の同級生たちの言葉や行動は、まるで『朝鮮人は劣等民族だ』と言っているようなもので、今思えば、社会的にもそんな認識が蔓延していたように思う」(文さん)。

1945年、文さんが4年生の頃に、地元の大人たちから神社に集まるよう呼びかけがあり、そこで、日本が敗戦したことを知る。かれが暮らした大分のある地域には、古物商を営む同胞宅がいくつかあり、知らせを受けたその一帯の同胞たちは、帰国しようと荷物をまとめ、大分港へと向かった。しかし、「どうしたことか船が来ず、そのまま帰国は中止となった」。

反骨心をバネに

取材当日に見せくれた中学時代の日記帳

一方で、植民地支配下に生きた多くの朝鮮人がそうだったように、文さん一家もまた、大家族を養うに十分な生活・財政基盤があるわけでもなかった。「家が本当に貧しかった。修学旅行なんて行ける状況ではないし、画用紙など揃えるものが多い図工の時間は、一番嫌だった」。

そんなある日、文さんは小学校の図書館で「偉人伝」を手に取る。この時、奴隷解放を宣言した米国のリンカーンに魅了され、「現実から抜け出すには勉強するしかない」と思うようになったそうだ。

それからというもの、学業と両立して始めた新聞配達のバイトは、小中時代はもちろん、その後も長い期間続いた。

取材当日、今にもちぎれそうな色褪せた日記帳「糧」を持参した文さん。そこには、中学時代に体験した被差別体験や、勉学を極めた先に、自身の未来を見出したかれの思いを垣間見られる、こんな記述があった。

1949年8月7日 晴

隣りのアヤ子とイトエ(その他、その友が2人いる)たちは、僕を見れば笑ったり、ひやかしたりして馬鹿にしている。僕が「言ってはいけない」と忠告しても無駄だ。あまりいうので、「ナグルゾ(殴るぞ)」と暴力に訴えたが無駄、ひとつも効果がない。むこうが言うのを聞いていれば、つい返したくなる。こんな人にとりあってはいけないと思っていながらもブレーキがきかないのだ。

1949年8月13日 雨

 夕刊配達、すごい暴風雨は雨具をたたく。折からの暴風雨に人通りは少ない。暴風雨であろうと何であろうとN・P(News Paper:新聞)は配達せねばならぬ。一刻も速く知らせねばならぬペーパーだもの。否、未開拓の人にとっては宝かもしれないものだもの。

中学卒業後、文さんに転機が訪れる。当時の文さんといえば、卒業時に大手文房具屋の就職試験を受け合格、全校生が参加する朝礼で「就職第1号」として紹介されるも、「朝鮮人であること」を理由に最終的に落とされる経験をしていた。当時、「たくさんのハンディに対する反骨心があり、それをバネに耐え抜いた」という文さん。行く先が定まらないまま、仕方なく新聞の仕事を1年続けたのち、ようやく入学した夜学での3年目を終えていた。

その年の春のことだ。幼い頃から共に地元で育った文さんの先輩が、中央芸術団(現在の金剛山歌劇団)の団員になっていたことを知る。

「ある日、その先輩と神奈川・川崎出身の団員が訪ねてきた。東京に行って勉強をしたかった自分は、後先考えず、その団員の祖母が住んでいるという川崎の住所が書かれた紙きれをもって、カバン一つを手に夜行列車に乗り上京した」(文さん)。

新橋駅に降り立ち、川崎へと向かった文さんは、先輩の祖母宅に荷物を置き、今後の拠点探しを始めたという。そうして当時、東京・目黒にあった東京都立大学付属高等学校(定時制)に編入し、その近くにある新聞の販売店で、住み込みで働きはじめた。55年、19歳の頃だった。

「在日朝鮮人」として

朝鮮大学校入学時の記念写真(最上段左から1人目が文さん)

朝鮮半島から日本へと渡り、大分県での生活を経て上京するまで、まさに波乱万丈な人生を送ったかれは、それ以降、「在日朝鮮人」としてのアイデンティティを獲得していった。

「ある日、山手線に乗っていたときだった。チマ・チョゴリと学ラン姿の朝高生2人をみかけ、思わず声をかけた。お願いだから、(ハッキョに)連れていってほしいと」。実際に学校を訪ねて面接をするも、当時すでに年齢が19歳だったこと、朝鮮語をまったく分からなかったことが影響し、「通うなら1年生から」となった。その日、入学をあきらめ、帰路についた文さんだったが、後日、面接を担当した教員が訪ねてきて「朝鮮大学校の存在を教えてくれた」。それから56年に朝大に進学。大分で幼少期を過ごし、朝鮮学校や同胞社会の存在を知らぬまま育った少年・「文本水範」は、この頃から「文水範」としての人生を歩み始めた。

一方、57年には祖国から送られた教育援助費および奨学金の1次受給者となった。筆者が在学期間の思い出を問うと、授業以外の時間はバイトに費やしていたため、学友たちとの思い出はないに等しいものだった。

その後はというと、大学を卒業し、西脇初級(当時、後に西播初中に統合)、神戸朝高で教員を務めたのち、総聯兵庫県本部や管下支部、商工会など、約40年にわたり専従活動家として人生を送った。文さんが自身のこれまでを振り返り、そのうえで伝えた次世代の同胞たちへの思い―。

「誇りも持てず人生を送っていた自分のような経験を、子どもたちが繰り返してはいけない」。

取材を通して「精神的支柱があるのは本当に幸せなこと。それが組織であり、祖国」だと繰り返し話していた文さんの姿が鮮明に思い出される。数々の困難に対する反骨心が力となり、「在日朝鮮人」として生きるいまを誇らしくとらえる文さんの生き様は、わたしたちに大事な示唆を与えるものだろう。

(韓賢珠)

【取材対象を探しています】

朝鮮半島から渡ってきた在日朝鮮人1世の同胞で、当時の記憶や幼い頃の故郷での思い出、渡日後の日本での生活など、自身の個人史について語ることのできる対象がいれば、朝鮮新報編集局までご一報ください。

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