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〈記憶を歩く〉京都・在日朝鮮人1世/鄭桂仙さん(89)

2023年11月12日 08:00 記憶を歩く

“チョソンサラムとして生きる”

祖国解放から今年で78年、在日同胞コミュニティーの形成初期を知る多くの同胞たちがこの世を去った。それは同時に、祖国の分断に苦しみ、植民地宗主国・日本に暮らすという構造的抑圧のなかで生涯を終えた朝鮮人たちが数多く居ることを意味する。このような先代たちの記憶と営みは、明日を担う次世代が、自分たちのルーツについて考え、または向き合った際、欠かせない視点となるのではないか。そしてかれらの声を記録することは、同じルーツをもつわたしたちの役目ともいえるのではないか―。【連載】「記憶を歩く」では、今を生きる同胞たちの原点ともいえる在日朝鮮人1世たちの声から、「ウリ(私たち)」の歴史を紐解く。

9月末、盆地特有の厳しい暑さに見舞われながら、京都駅から5分ほど歩いただろうか。この日の目的地、鄭桂仙さん宅にたどり着いた。筆者が到着するや否や、忙しなく話し始めた鄭さん。少ししてその事に気づくと、「お茶ぐらい飲まなあかんやろ。ごめんなあ」と、照れくさそうに笑ってみせた。

鄭桂仙さん

1934年7月、慶尚南道山清郡に生まれた鄭さんは、渓谷や山々といった自然に囲まれながら、家族や親族たちと集まって暮らしていた。当時は「若くして子を産むのが当たり前」の時代、故郷での思い出といえば、10代でかのじょを産んだ母に代わり、「(自分の)子守りをしてくれていたお婆さんの記憶」が何よりも鮮明だと、鄭さんは話す。

「あの時すでにアボジは、私を身ごもったオモニを朝鮮において、出稼ぎのために日本へ渡っていた。オモニは幼い歳に一人で私を産んで育てるのが大変で、最初は実家に帰ろうとしたらしいわ。けど実家では『嫁いだ家があるのになぜ戻ってくるのか』と追い出され、泣く泣く戻ってきたそうだ」

そんな鄭さんの母親を陰ながら支えたのが、今でいう「お手伝いさん」のような役割をしてくれた「お婆さん」、そのお婆さんを思い起こし、「山清では割といい生活をしていたと思うわ」と鄭さんは語った。

朝鮮で過ごした幼少期、かのじょの母を支えた人がもう一人いた。父方の伯父だ。父方の祖父母が早くに他界し、鄭さんの父親にとって親代わりだったという伯父は「アボジをわが子のように可愛がっていたと後から聞いた」。

その父親の子だった鄭さんにも、もちろんたくさんの愛が注がれた。

かつて住んでいた兵庫の同胞女性たちの集まりにはいまも参加している。写真は昨年10月の「복주머니1泊2日の集い」(前列最左が鄭さん)

「私が産まれた時、お祝いで、わかめスープを作ってあげようと思った伯父は、山を越えて街にわかめを買いに行ったそうだ。けれどその帰り道、大雨に打たれて膨れたわかめを半ば引きずりながら戻ってきたんや」(鄭さん)

一方で当時、鄭さんの母と伯父は、渡日後にいつしか連絡が取れなくなっていた父の安否が確認できず、長いこと頭を悩ませていたという。

「アボジはもう死んでしまったとばかり思っていた矢先のことだった。人づてにアボジが生きていると知って…」

そうして鄭さんが3歳の頃、母に連れられ船に乗り日本へと渡った。

再会後に待っていた暮らし

船に揺られ、鄭さんと母親は神戸にたどり着いた。

「人間らしい生活なんてあったもんじゃない。どれだけ虐められたか…」。父親を探しにやってきた神戸の地で、その後、鄭さん家族を待ち受けていた暮らしに、筆者もかける言葉を見失った。

当時、日本の植民地支配下にあった朝鮮の人々が、条件のいい仕事に就けるはずもなかった。ついに再会を果たした鄭さん家族は「馬小屋を住まい」にして生活を営むようになり、父親はコメなどの運搬業をはじめた。

「ひどい所でな、日本人は本当に悪かった。朝鮮人は人間じゃないから、住む所も馬小屋の2階なんや」。鄭さんいわく、その頃、同じような職に就き、生活する同胞たちが一人や二人ではなかったという。「ものすごく惨めな生活だった」。

ある時、まだ幼かった鄭さんが、

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