〈青商会、挑戦と継承の足跡〉Ep.2 地方青商会の結成(3)/二分する世論をまとめた力
2020年11月19日 11:45 主要ニュース青年商工人をはじめ次世代の同胞社会を担う30代同胞のネットワークを広げ、経済・生活をサポ―トする大衆団体として1995年に結成された在日本朝鮮青年商工会(青商会)。変化する時代のニーズに応え、2世、3世の同胞たちが自らの手で切り開いてきた青商会の25年は、継承と挑戦の歴史であった。「豊かな同胞社会のために」「コッポンオリたちの輝かしい未来のために」「広げよう青商会ネットワーク」のスローガンを掲げ、在日同胞社会の発展をけん引してきた青商会の足跡を振り返る。週1回配信。
1995年9月6日、青商会結成大会当日、京王プラザホテル(新宿)の会場には、九州からの参加者の姿が見当たらなかった。
後に福岡青商会初代会長を務める金光雄さん(当時39。64、現・福岡商工会顧問)は、青商会結成準備委員会及び事務局のメンバーだった。福岡と東京を行き来し、約1カ月間、結成大会の準備に携わってきたはずだったが――。
「青商会結成大会の開催が伝えられたのは、大会の1カ月ほど前。実は、九州ではすでに地域の青年商工人協議会(젊은 상공인협의회)の有志らで中国旅行を計画していて、日程がバッティングしていた。当時、再入国許可書を持ち、海外旅行に行くことは簡単ではない。チケットもビザもすでに手配済みだったので、青商会結成準備委員会のメンバーに、『ミアナダ。行けない』と謝ったよ」(金光雄初代会長)
参加こそできなかったが、結成大会で中央青商会役員に任命された金光雄初代会長は、地方青商会を立ち上げるべく、地域の協議会メンバーの説得に奔走する。
当時、青商会結成に関して、地域の世論は二分されていた。
福岡青商会初代幹事長を務めた李光鎬さん(57、現・総聯福岡県本部副委員長)は、「福岡、小倉、八幡の3カ所に協議会があり、それぞれが活発な活動を行っていた。言うならば協議会は、朝青を卒業し総聯、分会や商工会に所属していない宙ぶらりん状態だった同胞青年たちの『緩衝材』。県青商会結成については、『今のままでいいのでは』『政治色がないほうが集まりやすいのでは』という否定的な意見と、『現在の協議会を県的な組織としてまとめたら、より良い活動ができるのでは』という肯定的な意見があった」と当時の状況を語る。
県青商会を結成する上で主力となったのは、後に中央青商会第5期会長を務める許宗さん(現・福岡商工会会長)ら、金光雄初代会長の1つ下の世代だった。県青商会結成のための準備委員会では、金光雄さんが会長を、1つ下の世代が副会長を務めた。
準備委員会事務局長を担った李光鎬幹事長が、当時一番苦労したのは、この副会長たちとのやり取りだったという。
「会議では、ある程度時間の制限があるから『とりあえずこれで行こう』と意見をまとめ、皆で食事に行く。すると翌朝、副会長から電話がかかってくる。『事務局長、昨日決まった件だけど、やっぱり納得いかんなぁ』。副会長らは、みな遊技業の社長たち。力もあるし、自分の意見を押し通そうとするから、一筋縄ではいかない。それを説得して、方々に電話をかけて調整をして、その繰り返しだった」
当時、李幹事長は朝青上がりの32歳の専任活動家。40歳手前だった会長、副会長たちには「よく怒られたし、可愛がってもらった」と懐かしむ。「みな社長だから、朝青時代の延長でポロシャツとパンツ姿で事務所を訪問したときなんて『イルクンの悪い癖やぞ!』と怒られた。それからは、スーツにネクタイを締めてね。いまとなったら、笑い話。本当にいい経験をさせてもらった」。
青商会結成について二分していた世論は、力のある副会長たちを中心に徐々に一つにまとまっていった。
「さまざまな意見があったが、副会長たちが皆、民族教育を受けており、組織に対する理解があった。また、各地に県青商会が結成され、青商会ネットワークが構築されていった時代の流れも結成を後押しした」(李幹事長)
こうして、96年4月13日、福岡青商会が結成される。
金光雄初代会長は、青商会結成の意義を次のように語った。
「1世たちは、日本各地に友人がいたが、そのような若者同士の交流が2世、3世では途絶えつつあった。青商会が発足したことで、各地に友人の輪がつながり、ビジネスのチャンスが生まれた。一生つながるネットワークを構築したという点で、青商会が果たした役割は大変大きい」
金会長自身、青商会の創成期に日本の最北端と最南端でそれぞれ活動した北海道の朴昌玉初代会長との旧知の仲を現在も大切にしている。「青商会時代に出会い、組織が大変な時代も、数十年間ともにがんばってきた同志。今振り返ると、皆で苦労して青商会を作って、本当に良かったと思う」。
このように、中央青商会役員たちはそれぞれの地元で、地方組織の結成に尽力した。
一方、役員不在の地域では、どのように地方組織建設が進められたのか。組織建設の過程で、熾烈な議論が交わされた地域の一つとして挙げられるのが、在日同胞がもっとも多く住む大阪だった。
(つづく、金宥羅)