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〈朝鮮歴史人物〉百済の始祖・温祚(3)

2013年11月19日 09:00 歴史

温祚は、兄を快く迎え宮殿で一緒に暮らすようにした。

しかし、沸流は弟に合わせる顔がなかった。海に好奇心を持ち弥鄒忽に都を定めたものの、風が強く風浪は激しかったし、塩水が浸み込んで湿り、農作物がうまくできなかった。その上、彼には海に対する知識が全くなかった。

沸流は自分も国を建てようと試みたが、失敗に終わり、弟を訪ねてきたのであるから心中は穏やかであるはずがなかった。

そうして、惨めな自分の失敗を恥じ、孤独な気持ちを抱きながら過ごしているうちに寂しく世を去った。

温祚は、次第に国の領域を広げ、堂々たる国家を形成していった。

初めに国を定めた時にはいくらにもならない土地を占めて、周辺の馬韓に服従しつつ、時には神奇な鹿を生け捕って馬韓に献上したり、靺鞨の酋長を捕えて送ったりした。

だが温祚は、徐々に馬韓に属する別の諸小国を統合しながら自らの支配権を確立していった。

地方統治制度とともに、中央統治機構も整備した。

初期の政府の最高官職は右輔ひとつだけを置いたが、次第に左輔の官職も生まれた。

百済では、全国を二つの行政区域に分けて多くの邑落を置いて統治しており、その後は四部行政制度を設けた。

四部の下には軍事行政単位である城を配属させて、それらを通じて邑落を管轄させた。

このように、温祚をはじめとする統治者たちは自らの支配権を強固にしていった。

紀元前3世紀中葉、高句麗のある集団が漢江下流地帯に移動し百済を建てた事実は、遺跡遺物を通しても考証されている。

漢江一帯にある石積郭墓は、その明白な物証である。

発掘された代表的なものは、京畿道楊平郡湖里の石積郭墓である。それは一辺の長さが約7.6m、高さが約3mである。

墳墓の内部構造を見ると、底に川石を綺麗に敷いてその上に片麻岩と花崗岩で東西6m、南北7m、高さが約60㎝ほどの石槨を積んでいる。石槨の中から発見された鎹は、この墳墓が非常に早い時期のものであることを示唆している。

湖里積石槨墓で検証された資料は、高句麗のものをそのまま手本にしていることを物語っている。とくに、鴨緑江一帯の高句麗古墳と対比してみると、形式と大きさが非常に似ている。

それに、墳墓から出土した鎹、鉄製小刀、青銅製品、大輪の玉などの遺物も高句麗初期のものと同じである。

百済では早くから稲作を行った。広い平野に田を耕し、貯水池を造り堤を築いた。

その後の史実であるが、百済では330年に、堤の長さが1800歩にもなる貯水池である碧骨池を今日の全羅北道金堤郡に造っている。これはその時代を考えてみると、高い水利工学的水準を示す一つの実例となる。

百済では牛、豚、馬などの家畜も多く飼育しており、小麦、麦、豆をはじめとするいろいろな穀物と野菜、桑の木を栽培した。

そして、新羅をはじめ周辺諸国に種馬を贈り、百済の馬が広く普及するようになったといわれる。

百済の金属加工技術も非常に発展し、鉄板と農機具、刃物などを造っており、これは日本にも大きな影響を与えた。

(朝鮮新報)

解説

  • 馬韓-朝鮮半島の南側に存在した三韓の一つ。50余りの部族国家からなり、現在の全羅道、忠清道、京畿道の一部を占めた。4世紀半ば、百済によって統合された。
  • 四部行政制度-百済初期の行政区域は東、西、南、北の四部に分かれていた。四部の下には軍事単位である城が属して邑落を管轄していた。その後6世紀になると五部制度、五部五方制度へと細分化し、より整備強化されている。

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