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〈続・朝鮮史を駆け抜けた女性たち 48〉才色兼備の詩人-笑春風

2013年02月13日 10:17 文化・歴史

大臣を笑い飛ばした妓生/朝鮮王朝実録にも記録

妓生―笑春風(ソチュンプン)には有名な逸話が多く、車天輅(チャ・チョンロ、1556 ~1615)の「五山説林草藁」には特に有名な話が記録されている。

「ある日、(王が)永興(ヨンフン)の名高い妓生である笑春風に酌を命じると、(彼女は)蹲所(チュンソ、祭祀の際、酒樽や酒甕を置いておく所定の場所)に進み出て金の杯に酒を注いだが敢えて王の前に進み出て(酌を)することはできず、そのまま領相の前に出て杯を手に詩調を詠んだ。その(歌の)意味は、『舜(王)がおられるが恐れ多くも直接さし上げることは出来ないので、堯(領相)であれば私にとってとてもふさわしい』ということである。このとき武臣で兵曹判書に就いていた者がおり、考えるにすでに領相には酌をしたので当然武臣(である自分)にも酒を勧めるであろう、次は必ず自分の番だと思っていた。(が、彼女は)大宗伯(周の時代の官職名、典礼を司った)として文衡である者が座っている前に行き、酒を注ぎ詠った。『通今博古な明哲君子をよそにあの無知な武夫の所に行けようか』と。武臣が怒りを露わにすると、笑春風はまた杯を満たし前に進み出て詠った。『前言は戯れで、私の誤り。赳赳武夫(勇猛な武士)にどうして従わないでいられましよう』。このとき王が大層喜び笑春風に錦段、絹紬、虎豹皮、胡椒を甚だ多く下賜した」(一日命笑春風行酒。笑春風。永興名妓也。因詣尊所酌金杯。不敢進至尊前。乃就領相前。擧杯歌之。其意曰。舜雖在而不敢斥言。若堯則正我好逑也云。時有武臣爲兵判者。意謂旣酌相臣。當酌將臣。次必及我。有大宗伯秉文衡者在座。春風酌以前曰。通今博古。明哲君子。豈可遐棄。乃就無知武夫也。其主兵者方含怒。春風又酌而進曰。前言戱之耳。吾言乃誤也。赳赳武夫。那可不從也。…於是成廟大悅。賞賜錦段絹紬及虎豹皮胡椒甚多)」

妓生イメージ

諧謔の妙味

実は武臣は席順を間違え文臣が座るべき場所に座っていたので、「無知な武夫」と揶揄されたのだ。だが彼女は、「・・・文武一体だということは私も心得ています・・・」と詠うことも忘れなかった。宮廷で臆することなく大臣を強烈に揶揄する美しい妓生、ほぞを噛む髭の大臣たち。その対比はさぞや見ものであったろう。また彼女は、自分が置かれた立場を心得てもいた。気まずくなった宴席を次のような詩調で和らげたのだった。

齊も大國 楚も大國

小さき螣(とう)が齊と楚の間にある

ままよ 齊と楚 同じように慕えばよし

「齋」と「楚」は両大臣、小さき「螣」は自分のことである。

彼女の朝鮮語の詩調には中国の故事が引用されていることから、相当の知識の持ち主であったといわれる。

宮中宴会の酒器

多くの男性を虜に

美しい笑春風を王族や朝臣たちが取り合ったという逸話は多い。

実録、成宗条の1485年11月16日の記事には、宣傳官金胤孫(キム・ユンソン)が王族李定(リ・ジョン)の家から笑春風を無断で連れて行き、白昼に姦通したので罰を与えて追放した方がいいという通報や、同1511年3月6日、前節度使黃衡(ファン・ヒョン)が親の病を理由に辞したとき笑春風の家に居続け、親の葬儀があったにも拘らず姦淫し不忠不孝だと騒ぎになったという記事、また、魚叔権(生年没日未詳)の「稗官雑記」には、笑春風の最愛の男性だった李秀葑(リ・スボン)、最後を看取った崔國光(チェ・グァングク)、彼女を忘れられず後悔に苛まれる王族興原(フンウォン)君の逸話がある。

病に倒れた彼女が李秀葑に会いたいと言い残し24歳(推定)でこの世を去ると、崔國光は彼女を彼の近くに埋葬してやる。王族興原君は生前に彼女に良くしてやれなかったことを悔やみその墓前で立派な祭祀を執り行うと約束しそれを実行したという。(最愛士人李秀葑。崔生國光畜於別家。一日妓病革。・・・妓曰。欲見秀葑也。・・・旣死。崔葬於高陽先塋之下。宗室興原君。亦嘗眷愛。約曰。我無以厚汝。汝死則當別奠墓前以表此心。旣葬。興原備奠具送奴祭之)笑春風の何が彼らをここまで狂わせたのだろうか。知性と諧謔、粋と美意識。

(朴珣愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)

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