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〈続・朝鮮史を駆け抜けた女性たち 47〉王位から世子を引きずり下ろした絶世の美女ー於里(15世紀)

2013年01月15日 15:08 文化・歴史

王子を選ぶ

「朝鮮王朝実録」には、ある雪の夜、風流を求めて宮中を抜け出した朝鮮王朝第三代王太宗の長子譲寧(ヤンニョン)大君が、輿から降りて家に入ろうとしている絶世の美女を目に留めた、という件がある。於里(オリ)が譲寧大君に初めて会ったのは、彼女がまだ前中樞府事郭璇(クァク・ソン)の側室だった頃である。郭璇は高麗末からの名のある武臣であり、「朝鮮王朝実録」に「美しさとその芸が比類なきものだと皆が称賛」(太宗17年)したとある於里が、その身を寄せるに足る人物だったようである。だが、彼女が親戚の家に逗留中だという噂を聞きつけた譲寧は、取り巻きを先に行かせて呼び出そうとしたが拒絶され、豪華な刺繍が施された巾着を贈り興味を引こうとするも失敗、ついにはあろうことか自ら塀を乗り越えその家の中に入ってしまった。世継ぎ一行が突然現れたものだから、彼女の親戚も彼女自身も慌てふためいたはずである。親戚に促され仕方なく譲寧の前に現れた於里は、就寝中だったので急いで着替えはしたものの髪を結い、化粧をする時間もなく、髪には緑豆の粉が付いていたという。それでも大層美しかったと、野史などに伝わる。譲寧が於里を無理やり馬に乗せようとすると、その手を払いのけ「掴まなくても自ら乗ります」と答えたという。妓生出身の彼女の心はすでに決まっていたのだろう。世継ぎの王子が自分を求めて塀まで越えて来たのだから。

於里を訪ねて来た王子

公開書簡

宮中は大騒ぎである。元々、自由奔放な王子であったが、側室と言えど人妻を攫い宮中に連れて来たのだから父王の耳にも入らざるを得ない。譲寧を於里の元に手引きした取り巻きたちは処罰されたが、於里にはお咎めはなく静かに家に戻されただけだった。父王も世継ぎの王子の評判を考え、内々に処分を下したのだ。だが王子は諦めなかった。恋しさのあまり、於里を宮女と偽り宮中に呼び戻して共に暮らし子まで儲けたのだった。父王の怒りは激しく、譲寧の正夫人である世子嬪は実家に戻され、義父や彼を庇った者は重臣であっても流罪に、王子の門番や宦官は皆首を刎ねられる羽目になった。どうしても於里を諦めきれない譲寧は、王に公開書簡を出す。

「王の侍女は複数宮中に置きながら、私の妾だけを追い出そうとなさるのですか。(中略)王は於里を追い出そうとなさいますが、(そうなると)彼女の苦労が目に見えるようでそうは出来ませんでした。外に追い出して無知で野蛮な者どもの目にさらされ・・・かえって(王族の)名誉を汚すことになると思ったのです・・・これからこの世子は新しく生まれ変わり、王の御心を曇らせることは微塵もないでしょう」(1418年5月30日)

続けて譲寧は、今までの自由奔放な生活態度を改め立派な世継ぎになりますと懇願するのだが、父王の怒りは収まらなかった。よほど於里に夢中だったのか、公開書簡の中に彼女の名を直接書いている。普通は抽象的に書くものだが、有体に言えば「良い子になるから僕の於里を追い出さないで!」ということなのだ。

譲寧は山の岩陰で発見され、後にその乳母らは取り調べを受けて断罪される。父王がその書簡を読んで再び激怒したことは言うまでもない。1418年6月、譲寧は世子―世継ぎから廃され流罪、それでも於里に会わせろと懇願したが叶わず、とうとう流刑地から脱走してしまう。その間、於里の身柄を預かっていた譲寧の乳母やその周辺の宮女らが彼女を酷く圧迫し、とうとう於里は自らの命を絶ってしまう。本当に自害であったのだろうか?当初、王子のアプローチを何度も断る気概を持った女性である。生まれた子を人質に取られたのだろうか。

「王位を投げうってまで得たい」と、王子をして思わせた於里という女性は一体どんな「人」だったのだろうか。「美しさと芸」は朝鮮王朝実録が太鼓判を押している。だが、美しく芸に秀でた女性は宮中で珍しくはない。稀代の風流人であったとされる譲寧が、恥も外聞もなく追い求めた先にあったものは、「真実の愛」なのか、「恋の火遊び」なのか、それとも「人間於里」だったのか。

(朴珣愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)

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