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独島問題、史実に合わない日本の主張

2012年09月04日 15:37 歴史

国家文書も認める「朝鮮領」

日本の首相が南朝鮮の現職大統領に宛てた親書が受け取りを拒否され、両者間で事態が紛糾している。報道によれば親書の内容が、現職大統領の独島訪問を「島根県の竹島に上陸」とし、日本の領土に不法侵入したという表現になっている。親書は、相手方が絶対に受け入れない内容を百も承知していながら対決の姿勢で高飛車に突きつけた形になっている。

まず明らかにすべきは、独島問題は1905年、日露戦争の最中に朝鮮側の地方行政官とも中央政府とも何の交渉もなしに日本軍が武力占領し島根県に編入したことから発生したということである。

日本政府は、「竹島(独島)は日本の固有の領土である」と主張しているが、そのような歴史的史実は全くない。

于山国といわれた鬱陵島と独島は新羅に服属しており、朝鮮最古の史書「三国史記」にも記録されている。朝鮮王朝末期の独島は江原道の鬱陵島に属し、郡主の沈興沢の行政下にあり租税が徴収されていた。

徳川三代将軍家光は1639年、鎖国令を発して海外渡航のできる船の建造を許さず、鬱陵島と独島は外国領として渡航を禁じていた。

しかし、日本外務省のホームページ「竹島領有権に関する我が国の一貫した立場」では、これと全く矛盾したことを言っている。そこでは、伯耆(ほうき)藩米子の町人・大谷甚吉、村川市兵衛が幕府から竹島を「拝領」したり、「領有」していたとし、「遅くとも17世紀半ばには竹島の領有権を確立した」としている。この外務省のホームページは、「伯耆藩」と記載しているが、江戸時代には「伯耆」という藩は存在していない。

また、「拝領」というのは領主から領有権を譲渡されることだが、「鬱陵島に対する支配権もなかった幕府が、藩や国を飛び越えて直接に町人に島の領有権を認めるなどということは、歴史の常識では考えられないことである」(内藤正中著「竹島=独島問題入門」より)。

後に訂正したものの、外務省のホームページは「領有権」の立証を急ぐあまり、このような架空の事柄まで持ち出すお粗末な失敗をし、信頼性を大きく落とした。

明治政府以後になると、佐田白芽ら外務省官吏が朝鮮事情を長期間調査して、1870年(明治3年)政府に対する報告書「朝鮮国交際始末内探書」を提出し、「竹島松島朝鮮付属に相成り候」と述べている。

当時、日本では竹林の多い鬱陵島を竹島、独島を松島と呼んでいたが、この報告書は、両島が朝鮮領であることを認めている。

1877年3月29日付で太政官は内務省に「日本海竹島他一島版図外ト定ム」と表題をつけた指示を下すが、そこには「竹島他一島、儀本邦契(ママ)無之儀ト可相心得事」と記されている。太政官とは、明治初期の最高国家機関である。明治の元勲である参議・岩倉具視も連署したこの文書は「竹島他一島」は朝鮮の領土であって、日本の「固有の領土」とは一言も言っていない。ここで言う「他一島」とは鬱陵島の属島である独島を指しているのは言うまでもない。この太政官文書は日本の国立公文書館に所蔵されている公開の資料であるが、日本の主張する「固有の領土」云々が全く根拠のないことを決定的に明らかにしている。

川上健三(外務省条約局の外交官)の「竹島の歴史地理学的研究」は、独島が「日本の固有の領土」であるとする主張の重要な論拠としてしばしば引用されている。しかしこの太政官文書は自説の根拠を揺るがす不利な資料であるためか、著述からすっぽり抜けている。

独島の「領土編入」は、国民にも外国にも知らせるべき重要な事項であり当然、官報に記載しなければならない。しかし、日本政府は官報に載せなかった。全国紙がこれを報じたのは一社もなく、地元の山陰新聞がわずかにベタ記事で数行報じたにすぎない。この不可解な措置は、武力による独島占領を人目につかないように進め広く知られたくないからに他ならない。独島に対する軍事占領が朝鮮併合の野心の表れでなないかと英米に疑われるのをはばかったからだという資料もある。

独島は二つの岩礁からなる日比谷公園ほどの小島にすぎない。日露戦争中、ウラジオストックのロシア艦隊が日本の補給線を切断するために活動し、本国からアジアに回航しているバルチック艦隊に対処するためにも、日本は朝鮮東海(日本海)における警戒と監視体制を強めなければならなかった。独島はそのための重要な地点の一つとして軍事占領されたのである。

本来、日本政府自身も重ねて朝鮮の領土と認めていた独島を武力で占領しておきながら、朝鮮が日本帝国主義から解放されて70年にもなろうとするこんにち、なおも「日本固有の領土」と主張するのは全く根拠のない牽強付会の一語に尽きる。

(歴史学博士・白宗元)

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