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〈高演義先生の情熱教室 16〉在日朝鮮人の言語生活についての一考察

抵抗の武器としての宗主国言語

1945年、8.15解放を同時的に迎えながら、私たちが本国同胞と決定的に異なる点があるとすれば、それは、爾来70年以上ずっと海外生活者であり続けたということであろう。私たち在日朝鮮人は、ビジネスや何かでこの地にやってきたのではない。生きるか死ぬかの思いを抱いて流れてきた植民地の出自である。

さて、そうである以上、当然そこに言語上の葛藤や緊張関係というものが生まれる。たとえば日常の言語生活は、朝から晩まで民族語というわけには行かず、これら生活人の内部には否応なしに宗主国日本の言語がごく自然な形で浸透してくる。私はこれを、この地に移り住んだ異邦人(朝鮮人)の生活語であると、あえてそう呼んでいる。

ところで、物書きである私は、ことば遣いを人から訂正されることがよくある。文章の法律、「文法」を守っていないと言われる。日本「国語審議会」の回し者かと思しき人から、文法違反を細かくチェックされる。「きたない」は形容詞で、「きれい」は形容動詞だといったたぐいのことだ。ところがこの私と来たら、あまり文法には興味がないし、いわゆる紋切り型表現など、そもそも大嫌いなのだ。たとえば「……と思う今日この頃です」とか、「喜びもまた一入(ひとしお)です」といった常套句を目にすると虫唾が走る。文法的には正解なのだが、書き手の人柄が、全く伝わってこない。個性が感じられない。潤いがない。(生きていて何が楽しい?)

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