〈ウーマン・ヒストリー 18〉医療の普及と「女男平等」を掲げ/劉英俊
2016年07月04日 14:11 文化・歴史日本に医学留学
劉英俊は平壌の貧しい家で生まれたが、ソウル貞信女子高等学校に進学、中国の北京女学校へも留学した。そこを卒業した後には、国内の3・1運動も経験した。そして、当時ごくわずかな者にしか開かれていなかった日本留学で医学を習うべく、東京女子医学専門学校に通う事になる。
異国の地で専門知識を身につけていった彼女は、東京留学生女子講演団を組織し、故国の女性たちに衛生知識を与える講演活動を積極的に推し進めた。また、医学の勉強をしながら社会主義運動にも関心を持ち始めた。そのため英俊は日本で要視察人物として監視される事となる。しかし熱意ある女性活動家へと成長していった劉英俊は1920年1月、東京の女子留学生らと手を取り合い、女性啓蒙を目的とした「女子興学会」を結成し、会長になった。
医療という専門的知識を備え30代中盤で帰国した英俊は、梨花女子専門学校の校医として働きながら、産婦人科病院を開業した。
しかしもっぱらの本業は女性運動の方であった。彼女は1927年5月槿友会結成に携わり、中央執行委員および政治研究部委員にもなる。 英俊は病院経営と、患者の治療で生計を維持しながらも、貧しい人々や民族主義運動をする人々が訪ねてくると、献身的に彼ら彼女らを介抱した。また国内に女子医学専門学校を設立するための交渉委員としても活躍した。
女性運動家としてその力をあますことなく発揮していた劉英俊は、解放後の1945年12月22日から、朝鮮婦女総同盟の中央執行委員長として活動をはじめる。その翌年、朝鮮共産党が朝鮮人民党・南朝鮮新民党と統合され南朝鮮労働党として発足すると、すぐに中央委員を引き受けた。また朝鮮婦女総同盟が拡大改変され「南朝鮮民主女性同盟」になると彼女は委員長にも選出された。南朝鮮民主女性同盟は、南朝鮮800万女性の意志と利益を代表し、朝鮮の統一と独立のため、外国軍と国内の反共勢力の妨害とたたかった。英俊も女性の利益を保護し、合法的な人民政権をつくるため奮闘を惜しまなかった。またこの頃から、産院を開き、無産階級の女性たちの出産を助けた。彼女は産院の院長というより、人情の厚い田舎のおばあさんという印象であったそうだ。
やわらかい面持ちの中にも、鋭い判断力を兼ね備えていた英俊は、朝鮮における女性解放運動を陣頭で指揮する指導者としてますます頭角を現していった。
彼女は南の政権下のもと、女性たちが台所でも、工場でも、職場でも、農村でも、勇敢に立ち上がり闘おうと呼びかけ続けた。その頃から劉英俊は、女性同盟の各界各層への拡大に尽力する一方で、北で実施していた土地改革を南朝鮮でも実施することを目指した。また、畜妾、妓生制度や、人身売買などを反対し、男女平等の権利を勝ち取るためにも積極的に活動した。
女性たちを独立国家建設へ
「封建遺制を打破し、女男平等を成し遂げよう!」
女性同盟が叫んだスローガンだ。彼女らは当時、「男女平等」ではなく「女男平等」と言った。朝鮮の歴史において長らく続いた従属関係が一日で正せるものではないが、その一端でも変えて見せようという心持ちの現れであった。 このスローガンを先頭に立って叫んだのが、劉英俊であった。
反面、劉英俊は少し前まで民族主義を掲げていた人々が次々に背信行為をするのを目の当たりにし、大きな衝撃もうけた。自らを「革命家」と自負していた人々が、このように容易く心変わりするものかと失望させられることも、しばしばあった。
劉英俊の女盟活動をずっと目につけていた米帝国主義とその一派は、47年8月、ついに彼女を逮捕したのであった。まさにこの時、彼女をはめたのが一時「革命家」だと名乗っていた者たちであった。釈放後も女性同盟活動の第一線から退くよう、卑劣な妨害と圧力が加えられた。劉英俊は一方では米帝と、もう一方では身内と思っていた人々と闘わねばならなかったのだ。
そんな時、劉英俊は歴史的な南北連席会議の招請状を受けとった。彼女は何の躊躇もなく北へ渡った。
1948年4月の南北連席会議では主席団の一員に選出され、1949年6月の祖国統一民主主義戦線結成大会では南朝鮮女性同盟代表として参加し中央常務委員にもなった。そこで彼女はこのように話している。
「南朝鮮女性たちは単独選挙に反対する闘争で手榴弾の製作と投擲に参加し、済州島・小白山・智異山などの地で蜂起した者たちに食糧を運ぶなどの重大な役割を担当した。今後も南朝鮮女性たちはこの会議決定を貫徹するため、全てを捧げるであろう」
この大会で北の様々な所を参観しながら、彼女は民族の力だけでも十分に民族分裂の危機を打開し、自主独立国家を建設が可能だと確信を持った。これを機に劉英俊は、より一層、統一自主独立国家建設のための闘いへ励んでいくのである。その後、劉英俊は北で最高人民会議代議員、祖国統一民主主義戦線中央委員会、赤十字社中央委員会副委員長、女盟中央委員会副院長として活動した。90年8月15日「祖国統一賞」を受賞し、没後は愛国烈士陵に安置された。
(金真美・朝鮮大学校文学歴史学部助教)
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