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東京大空襲、7歳当時の「記億箱」/朴基碩さんが語った体験談

2024年03月06日 14:31 歴史

第18回朝鮮人犠牲者追悼会で

東京大空襲79年第18回朝鮮人犠牲者追悼会(2日、東京都慰霊堂)では、神奈川県在住の朴基碩さん(86)が7歳のときに東京大空襲にあった体験談を語った。朴さんは事務局から体験談を話してほしいと要請され、7歳の子どもの体験談では力不足だと思ったが、日本敗戦から79年、戦時の体験談を語る「語り部」が少なくなり、今こそ語ることの大切さを感じて引き受けたという。他のことは忘れがちだが、「衝撃があまりにも大きかった」せいか当時の記憶はしっかりと残っているという。朴さんが語った1945年3月10日深夜から翌11日夕刻までの記憶を紹介する。

体験談を語る朴基碩さん

当時わが家は、東京の下町・常磐線南千住駅に近い、都電三ノ輪橋界隈に住んでいて、両親と7人の子どもがいる9人家族でした。

普段と違い止むことのない空襲警報に恐れおののき、あわてて家の前の道路に飛び出た瞬間から、私の「東京大空襲」が始まります。

母の背におぶさった1歳の弟、左右の手には4歳の妹と7歳の私、母のもんぺにしがみついていた小学2年生の姉の5人が泣き叫びながら、どこというあてもなく大火の中を逃げ回ったことが思い出されます。父と学生の姉、中学生の兄はすでに別行動に出ていたのか、ここにはいませんでした。

道路に飛び出た瞬間、家々の上空はB-29の編隊が重々しい轟音を響かせて、切れ目なく飛んでいました。そして2㍍ほどの、長い四角形の筒がざざっと音を立てて雨あられのように落下し、家々の屋根を突き破り大火災を起こすのです。左右の道路は見渡す限り火の海でした。運悪く焼夷弾(※爆弾の一種で、中に油が入っており、地面に落ちると周り一帯を焼きつくす)が落ちた周囲5㍍以内の人間は、衣服にガソリンが張り付いて燃え上がり、人間が火柱になって断末魔の声を張り上げて焼け死んだのです。燃えさかる炎のど真ん中で泣き叫ぶ子どもと、かなきり声をあげて子どもの名を呼び続けた母親の絶望的な悲鳴と光景が、今も眼と耳に焼き付いて消え去りません。

7歳の子どもの体験としてはあまりにも過酷で、衝撃的で、阿鼻叫喚の地獄絵を垣間見た思いです。

私たちはただおろおろするだけで、互いに手を強く握って泣き叫び、燃えさかる火炎の海原を逃げ迷うだけでした。

避難先があったわけではありません。ただ逃げ回るだけの避難民の流れのうしろにつき、やっと常磐線のトンネルを発見して飛び込みました。トンネル内はすでに避難民で満杯でした。何とか隙間を探して5人は強く抱き合い、ひとかたまりになりました。トンネルの左右からは燃えさかる火の粉が押し寄せていまにも飲み込む勢いでした。

ともあれ避難できたのです。翌日の朝方、陽が白々と明けても、トンネルの外はまだ火の粉が渦を巻き飛び交っています。逃げる途中子どもや家族を見失ったのか、涙声で名前を呼びながら、親や身内の人々が一晩中行き交いました。その中から、血相を変えて駆けつけた父や姉、兄を発見した時は声も出ず、互いに見つめあったまま抱き合い、泣き崩れるだけでした。

ともあれ、わが家は全員無事だったのです。一晩中燃え続けた炎は下火となり、家族をまだ見つけられない人々や焼け跡のわが家を確認に行くのか、人々はせわしなくそれぞれ散り始めました。

私たちも焼け跡のわが家を確認するために、トンネルから外に出ました。街中はまだくすぶり続けるところもあり危険なので、迂回して都電路線のある大通りに向かって歩き出しました。

体験談に耳を傾ける追悼会参加者たち

不思議ですね、家族全員が行動を共にしたはずですが、私の「記憶箱」にはこれ以降、私一人だけの単独行動として記億しているのですから。

大通りの両端には黒く焼け残った家財や雑多な木材が高く積み上げてありました。まだくすぶった焼け跡もあるのに、誰がいつ後片付けをしたのだろう? 積み上げた家財や材木を横目で確認しながら通り過ぎたちょうどその時、黒こげの「木材」がコトッと音を立てて4、5本が崩れ落ちました。びっくりしてそれに目を向けた瞬間、腰を抜かさんばかりに驚きました。「木材」を積み上げた黒こげの山は、黒く焼きただれた人間の手や足、胴体だったのです。驚きのあまり声も出ず、無我夢中で逃げ出しました。

家の近くの、よく隠れんぼうで遊んだことのある華子ちゃんの家の前を通った時のことがどうしても忘れられません。華子ちゃんのお母さんが、オイオイ泣きながら荒々しく焼け跡から何かを探していました。声をかけようかと思いましたが、話してはいけない不気味な緊張感が漂っていて、本能的にただ立ち止まって眺めていただけでした。やがて「華子、華子ちゃん!」と、お母さんの声が急に狂気を帯びてきたのです。お母さんは半分ほど焼け落ちた、華子ちゃんの赤い着物の切れ端を見つけたのです。お母さんは切れ端をつかみ取ったまま、とうとう大声をあげて「華子ちゃん、華子ー!」と絶叫して泣き崩れました。華子ちゃんは焼け死んだのです。私は急にとても悲しくなって、ポロポロ涙をこぼしながら棒立ちのまま泣き続けました。

7歳の「記億箱」に残っていた私の記憶は、これがすべてです。

たった一晩で東京は炎上してしまいました。この犠牲者のうち、植民地朝鮮から生きるすべを求めて玄界灘を渡ってきた同胞たちが1万を超えると言われます。

東京都慰霊堂には朝鮮人の遺骨はごく少数で、氏名に至っては植民地時代の創氏改名によって日本人名でしか分からない人も大勢いると言われます。

私の両親は1930年代に玄界灘を渡った在日1世です。当時7歳の、2世の子どもだった私の名前も、創氏改名によって「福田正雄」と名乗っていた頃の惨事でした。本名を取り戻したのは、解放後です。

米国をはじめ韓国、日本の不穏な動きにより朝鮮半島情勢は、いつ戦争が起きても不思議でない危険水位に達しています。何はともあれ朝鮮半島から、日本から、世界から戦争の火種は徹底的に消し止めねばなりません。

東京大空襲で亡くなった10万余の都民はもとより、故国を追われて異国の土となった1万余のわが同胞の、帰るに帰られなかった無念にただ頭を垂れ、浮遊する魂の休まらんことを心から願い、追慕する次第です。

(朝鮮新報)

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