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〈続・朝鮮史を駆け抜けた女性たち 53〉朝鮮一の女性詩人/晩唐の格調あり―玉峯李氏

2013年07月19日 10:36 文化・歴史
「夕立の日」朴幸甫

「夕立の日」朴幸甫

朝鮮一の女性詩人

文人たちの称賛

李玉峯(リ・オクポン、本名淑媛スグォン=1554?~?)、所謂「夢魂」という詩であまりにも有名な詩人である。小説「洪吉童傳」の作者であり、当時の政治家であった許均(ホ・ギュン、1569~ 1618)が、「星叟詩話」に彼女の「雨」をはじめ他の詩も紹介し次のように評している。

「私の姉蘭雪軒と同じ時期に李玉峯という女人がいたが、趙伯玉(趙瑗チョ・ウォン)の妾である。彼女の詩もまた清壮で、脂粉の態(妓生が化粧をし、媚を売るように言葉を飾り立てる様)がない」(家姊蘭雪一時、有李玉峯者、卽趙伯玉之妾也。詩亦淸壯、無脂粉態) 「銀竹」とは大粒の雨、激しく降る雨、転じて夕立の意。

(略)雲の切れ間から残照が漏れ

満天から銀の竹 江を横切り過ぎてゆく

(雲葉散邊残照漏 漫天銀竹過江横)

また、申欽(シン・フム、1566~1628)は自著「晴窓軟談」(チョンチャンヨンダム)で、関東八景の竹西楼からの眺めを詠んだ「竹西楼」について「本来、閨房の女性の作品の中では一番であり、古今の詩人の中では彼女のように(詩を)表現した者はいない」と評し、洪萬宗(ホン・マンジョ、1643~1725)は「小華詩評」(ソファシピョン)で「人々は玉峯李氏を朝鮮一の女流詩人だと言う」、同「詩評補遺」では「晩唐の格調あり」と称賛した。尹先覺(ユン・ソンガク、1543~1611)は「聞韶漫録」(ムンソマンロク)に「詩を詠み考えに耽る時、扇を手に時に口元を隠しながら話すのだが、その美声たるやこの世のものではないようだった」と書いている。

生涯の恋

玉峯は王族の子孫の庶子として生まれ、充分な教育を受け、比較的裕福な家門に嫁ぐが夫が夭逝、若くして寡婦になり実家に戻された後は詩作に没頭、繊細で精緻な情感溢れる作品を詠む一方で、自然や宇宙に心を馳せ人生を哲学的に捉える深遠な作品も残した。

上京した後は、男性文人たちと詩作を共にし、詩会にも頻繁に出席、その文名を馳せ文壇を騒がせたようだった。そんな中で雲江(ウンガン)趙瑗(チョ・ウォン、1544~1595)と運命的な出会いを果たすのである。趙瑗は既婚であったが、品格があり高邁なその人柄に魅せられた玉峯は、彼の副室になることを切望するが拒絶され、見かねた父が趙瑗に請うがまたもや拒絶されてしまう。ついに玉峯の父は趙瑗の正妻の父に正式に申し入れ快諾を得る。娘を思う父のお陰でその恋は成就したのである。だが趙瑗はこの婚姻の条件に詩作を禁じることを提示する。士大夫の妻が「はしたなく」詩作に耽ることはならないという訳である。玉峯は条件を受け入れ趙瑗と結ばれるのだが、どうもその結婚生活の間も詩を詠むことをやめなかったようだ。そればかりか、趙瑗が彼女に代筆させた手紙に詩を認めていた事を考えると彼は詩作自体を禁じたわけではなく、「宴席を伴う男性との詩会」に「はしたなく」参加してはならないということだったようだ。有名な筆禍事件―無実の罪で訴えられた山守のために弁解の詩を書いて疑いを雪いでやったため趙瑗に追い出されてしまったことは、当時政治的に微妙な立場にいた趙瑗が、この事件を政敵に利用されないようにとの「政治的判断」によるものだったのだろう。

女性が詩を書くという行為そのものが、またその詩作によって人々の耳目を集めるなどということは、当時「美しいこと」ではなかったのだ。女性が詩を詠むことがかくも困難な時代であった。

追い出された後の彼女の行方は杳として知れない。伝聞では戦乱に巻き込まれて命を落としただの、全身に自身の詩を書いた韓紙を数百重にも巻いて入水自殺しただのと伝説めいた話が伝わっている。

想いは永遠に

玉峯の詩を数首。

いわゆる「夢魂」という題名で有名なこの詩の原題は、「贈雲江」、「嘉林世稿」には「自述」と紹介されている。

最近いかがお過ごしでしょうか

窓の薄絹に月明かりが差し

わたしの恨も募ります

もし夢を頼りに魂なりとも行けたなら その跡があり

門前の石畳の半分は砂になったでしょう

(近來安否問如何、月到紗窓妾恨多、若使夢魂行有跡、門前石路半成沙)

七夕

永遠に会えるのだから どんな愁いがあるというの

浮世の離別とは比べようもなく

天上では本当は朝な夕な会っているものを

一年にたった一度だと 人間は騙されているのよ

(無窮會合豈愁思、不比浮生有別離、天上却成朝暮會、人間謾作一年期)

(朴珣愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)

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