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〈続・朝鮮史を駆け抜けた女性たち 45〉服を脱ぎ潔白を示す-南陽洪氏(17世紀)

2012年11月07日 10:23 文化・歴史

「貞節」絶対視する不条理

嫁してすぐに夫が病死

洪氏(17世紀)の死に際して、当時の学者李栽(リ・ジェ 1657~1729)は自身の文集「密菴集」(ミラムチプ)に、彼女が「烈婦」に叙せられたいきさつを書き次のように締めくくっている。

「当時絵のうまい者がいなかったわけでもないのに、(絵のうまい誰かが)彼女を描かなかったことを私は悲しむ(余悲當世不無善畫者莫能圖也)」

洪氏は聡明で親思い、物静かではあるが豪胆、幼少時より女史の気風があると言われた。壬子年に鎮川の李命寅(リ・インミョン)に嫁いだが、納采(結納)が届く前に夫が病死、その後を追おうと幾度も自決を図ったが、舅である李世重(リ・セジュン)に涙ながらに「私のために生きてくれ」と懇願されたという。彼女の婚家に対する献身は素晴らしいものだった。夫の祭事を立派に執り行い、まだ幼かった夫の弟と妹の世話をし、舅が2度夫人を亡くした後は李家の女主人としてその役目を果たした。元々裕福な家門ではなかった李家が、大家の風格さえ見せたのは彼女の尽力の賜物であった。

納采の書簡
烈女閣
婚礼の儀式(作者不詳)

ひどい濡れ衣

17世紀の朝鮮の社会において女性がその貞節に疑いをかけられるということは、真偽がどうであれそれは社会的な死を意味した。当時女性の貞節は自分個人のものではなく、「社会」が監視し「共有」するものであったからだ。

「女主人」の座を「横取り」されたと思い込んだ世重の妾と、財産を「横取り」されると思い込んだ夫の弟夫婦命麒(ミョンギ)と朴氏は、洪氏が男と通じ子を産み「始末」したと「事件」をでっち上げた。前もって洪氏に方違えと言って寺での読経を勧めておき、密会のために家を出て行ったと言いふらした。知的障害を持つ親戚辛必揚(シン・ピリャン)に、洪氏は日頃から親切に接していたことを利用されたのだった。当時、舅が遠流に処されていたこともあり、手先に金で嘘の証言をさせ、洪氏が「姦通」したということに信憑性を持たせ必揚の兄に「事件」を信じ込ませた。遠流を解かれた舅世重は当初嫁の潔白を信じ妾と次男夫婦を叱りつけたが、村中に広まった噂と「証言者」に騙されていった。ついに命麒は小間使い貞心の自白をでっち上げ、それをもって世重は鎮川の太守に訴えたのだった。

烈女閣

濡れ衣を晴らすべく

世重が訴えを起こすと妾と命麒は、高潔な洪氏が舅から訴えられたという事実に耐えられず自害するものと思い込んでいた。だが彼女は濡れ衣を晴らすべく、実家の兄を伴って出頭した。洪氏自らが書いた陳述書は数万字に及び、気高く、悲しみに満ち、命麒らの訴えが偽りであることを理路整然と時系列に沿って分かりやすく、数十項目に渡って証明していたのだった。

「義父と嫁の訴訟は人倫に悖ることでもあり、もし他の過ちについてならたとえ数万回引き裂かれ殺されたとしても甘んじて罰を受けましょう。恐れ多くもお父様に対抗しどうして汚名を雪ぎましょう。ですが、これは複数の悪人たちが鉄をも溶かすその口でお父様を騙し、心を誤らせ、あり得ないことを言いつのり私を貶めようとしているのです。汚名を晴らし、死してなお黄泉で不潔な亡霊になることをどうかお免じください(舅婦之訟、人倫極變、若係他累、妾雖萬萬磔死、甘心服罪、何敢抗舅自伸、而此則羣姦鑠金之口、詿誤舅心、爲言罔極、扞衊妾身、茲願一湔而死、免作泉下不潔之鬼)」(李時善〈1625~1715〉、「松月齊集」)

彼らは洪氏が授乳できる状態にあると騒ぎたて、衝立の陰で取り調べの女官は「母乳が出ます」と嘘を言った。前もって金をもらっていたのだ。憤慨のあまり洪氏は衝立の蔭から御簾をくぐり出てくると、庭石の上に立って上着を脱いだのだった。その堂々とした態度に、取調官が思わず自らの上着を脱いで彼女にかけてやったほどだった。

洪氏の嘆願により刑を減免された世重はその一年後に釈放、妾と命麒夫妻、その手先たちは棍刑の最中に死んだ。

釈放された彼女はその夜髪を梳き沐浴した後、口の中に剣を突きたて自害した。

自身の潔白のため家族と対決し衆人環視の中で敢えて衣服を脱ぐという行為は、当時の「女性にとって」貞節がどんなに絶対的なものであったのかを如実にもの語っている。いや、女性の貞節が「男性にとって」、また「社会にとって」絶対であったのだ。

(朴珣愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)

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