〈青商会、挑戦と継承の足跡〉Ep.3 ウリ民族フォーラムの始まり(4)/若い世代の実践、新しい感覚
2020年12月27日 07:26 主要ニュース 暮らし・活動青年商工人をはじめ次世代の同胞社会を担う30代同胞のネットワークを広げ、経済・生活をサポ―トする大衆団体として1995年に結成された在日本朝鮮青年商工会(青商会)。変化する時代のニーズに応え、2世、3世の同胞たちが自らの手で切り開いてきた青商会の25年は、継承と挑戦の歴史であった。「豊かな同胞社会のために」「コッポンオリたちの輝かしい未来のために」「広げよう青商会ネットワーク」のスローガンを掲げ、在日同胞社会の発展をけん引してきた青商会の足跡を振り返る。週1回配信。
100年続くフォーラムに
「こんないいものは、次はわしらがやるから!」――ウリ民族フォーラム96 in北海道(96年6月)の宴会場での韓広希・山口青商会初代会長の一声で、急遽シリーズ化が決まったフォーラム。実はその背景には、中央青商会のある試案があった。
李長五・中央青商会2代幹事長(当時は国際事業部長)は「当時、1回こっきりの企画となっていたフォーラムだったが、10回続けば、組織が変わるだろうという考えを持っていた」と回想する。
中央青商会幹事会での正式な決定ではなかったが、李幹事長には確信があった。「会長、山口ならきっとできます!」。宴会の最後、韓会長のあいさつの前に李幹事長が投げかけた一言が、次回フォーラム開催へと韓会長の背中を押した。
そして翌年6月25日、ウリ民族フォーラム97in 山口が開催される。フォーラムでは「朝鮮人強制連行の玄関口」である地域性を背景に、在日朝鮮人の過去、現在、未来をテーマに3時間に及ぶパネルディスカッションが行われた。
ウリ民族フォーラムを象徴するプレートが初めて登場したのも、山口フォーラムがきっかけだった。壇上では、第1回フォーラムを主催した北海道青商会から山口青商会へとプレートがしっかりと渡された。
プレートを制作したのは、李洪一・中央青商会初代幹事長。材料となる板を東急ハンズで購入し、足立の町工場に通った。プレートは、当時の中央役員たちが案を出し合い、手作業で作ったものだった。
プレートの大きさは「すべての子どもたちのために」という思いを込め、学生たちの机と同じ大きさに。上部にはウリ民族フォーラムという名称を掘り、下部には月桂樹を飾った。中心には、フォーラムの回を重ねるごとに開催地を金のプレートに刻み、貼ることにした。「このプレートとともに青商会の歴史を刻んでいこう。フォーラムが100年続くように」。ずっしりとした頑丈なプレートには、「裏方」たちの熱い気持ちが込められていた。
すべての子どもたちを笑顔に
第3回目の開催地となったのは、東京だった。98年5月9日、ウリ民族フォーラム98in東京には約550人の青商会会員、同胞たちが参加した。パネルディスカッションのテーマは、「21世紀 豊かな同胞社会のために」。
夜には、チャリティーコンサート「この笑顔を応援します」が開催された。ここには、男声重唱ユニット「アエ」の前身となる青商会のコーラスクラブが初登場。プロ顔負けの歌声で会場を沸かせた。
当日、大きな盛り上がりを見せたのは、東京朝高卒業生らの思い出のつまった演目「万豊年」。舞踊部を経験した青商会会員の妻たちも出演した。総勢600人の出演者たちによる一体感あふれる舞台は、会場を訪れた2千人の同胞たちの拍手に包まれた。李洪一幹事長は、「普段は組織活動に出ない青年たちも参加し、意気揚々と歌や踊りを披露していた。皆のいいところを引き出そうという雰囲気があった」と当時を振り返る。
コンサートには、朝鮮学校や日本学校の児童・生徒、そして同胞障害児・者家族のネットワーク「ムジゲ会」の会員たちが招待され、翌日には青商会会員たちと「ムジゲ会」会員たちの交流会が東京ディズニーランドで行われた。
「ムジゲ会」との交流は、前年の山口フォーラムで、あるパネラーが障害児を育てる上での悩みを吐露したことがきっかけだった。
「同胞社会で注目されてこなかった障害児の存在に目を向け、彼らのために行動することは、青商会が同胞社会をバックアップする、一つの実践活動になりうるのでは?」
青商会結成以降、「豊かな同胞社会」を目指し、交わした議論が実践へとつながった一つの事例だった。誰一人零れ落ちることのない、「すべての子どもたち」の笑顔の延長に、青商会が描いた真に豊かな同胞社会があった。
大胆かつ斬新な企画
第4回フォーラム開催地として白羽の矢が立ったのは、阪神・淡路大震災から復興間もない、兵庫だった。兵庫では、震災翌年の96年2月25日、県青商会が発足。県内では、地域単位での組織づくりが進んでいた。
兵庫でのフォーラム開催の背景にも、歴代のフォーラムから受けた刺激があった。
李政史・兵庫青商会初代会長(64、現・兵庫県商工会会長)は、兵庫から10数人の青年たちが参加した北海道フォーラムを「圧巻だった」と振り返る。「民族教育をめぐる真摯なディスカッションを目の当たりにし、コッポンオリたちの未来のために模索し、動かなければという思いに駆られた。こんなにいいものは、自分たちの地域でもぜひ開催したいと思った」。
98年に兵庫青商会2代目会長に就任した崔英俊さん(62、元尼崎初中教育会会長)にも、北海道、山口、東京のフォーラムに参加する中で、秘めていた考えがあった。(フォーラムの色をガラっと変えたい。従来の型にはまるのではなく、青商会ってここまでやれるんだ、という新鮮な驚きを同胞たちに与えられないだろうか…)。
2人の思いは同じ方向を向いていた。「李政史直前会長、兵庫フォーラム、引き受けてもいいですか?」「受けよう」。こうして、フォーラムに向けた半年間の準備が始まった。
フォーラムのテーマは「青商会の今後の進路」。開催に先立ち、各地青商会の協力のもと、在日朝鮮人運動についてのアンケート調査を行い、その結果をもとに、青商会が進む「次の一歩」を探った。
またフォーラムのチラシには、当時の青商会役員らが登場した。淡路島の日の出をバックに立った役員たちの背中には「ウリ時代21世紀」の文字。日の出には、「新しい時代の到来という意味を込めた」(崔英俊会長)。
崔会長の当時の手帳は、