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〈ウリハッキョサポーターの課外授業 朝鮮近現代史編21〉1930年代戦時体制下の朝鮮(1)

2023年02月15日 09:00 寄稿

「大陸兵站基地」化政策

■「鮮満一如」

1931年9月18日、柳条湖事件が起こされ、関東軍は満州侵略戦争を開始しました(「満州事変」)。朝鮮軍は関東軍の要請に応じて、兵力の半ば以上を増援部隊として越境出動させますが、林銑十郎朝鮮軍司令官が、「更に間島方面の状況危機につき極力占領する必要ある旨」を参謀総長に具申しているように、間島の朝鮮人独立運動を抑えるという独自の問題意識があったことをうかがわせます。「満州事変」勃発後、関東軍が満州における戦域を拡大していくなかで、朝鮮は「大陸兵站基地」として位置づけられるようになります。32年3月に「満州国」が成立し、37年7月に日中戦争、38年7月張鼓峰事件、39年5月にノモンハン事件が勃発すると、大陸兵站基地としての役割が一層増しました。中国・ソ連侵攻に必要な物資の補給と調達が最優先の課題とされたのです。それを象徴するスローガンが「鮮満一如」(朝鮮と満州との一体化の意)です。

■軍需工業化

日窒の興南肥料工場

総督府は、「文化政治」への転換とともに「工業化」を進める政策をとりました。20年4月に「会社令」を廃止し、8月には関税制度が改正され、日本の関税率と同一にしました。こうして工業分野に三井・三菱財閥系の大資本が進出してきます。「工業化」の基盤づくりにおいて重要だったのは鉄道網の拡張でした。従来の京釜・京義線に加えて、20年代に咸鏡線(元山―会寧)、平元線(平壌―元山)、図們線(雄基―潼関鎮)、東海北部線(安辺―襄陽)、慶全北部線(全州―順天)、東海南部線(釜山鎮―蔚山)が相次いで着工されます。

竣工当時の水豊ダム

日中戦争の拡大は、朝鮮経済の軍需工業化を一層促していきます。とりわけ「満州国」およびソ連と国境を接する朝鮮東北部(咸鏡南北道)に重化学工業を築きます。満州と朝鮮間の物資や人員の交通路として、従来からあった釜山―京城―安東―奉天―新京(長春)というルートに加えて、新たに「日本海」側の新潟・敦賀と結ぶ羅津・清津・雄基の三港を経由し、図們(豆満江北岸)―新京という満州と朝鮮を結ぶ「北鮮ルート」が開拓されました。朝鮮東北部では、野口遵(したがう)の率いる日本窒素肥料株式会社(日窒財閥)を中心にして大規模な水力発電所と化学工場群の建設が進められます。鴨緑江水系に大規模なダムをつくり(29年に赴戦江ダム、32年に長津江ダム、43年に水豊ダム竣工)、咸興郡雲田面に大規模な興南肥料工場を建設します(30年操業)。雲田面には興南という新しい地名が付されます。咸興・興南は化学肥料・軽金属・火薬・油脂など軍需と結びついた一大コンビナートとして開発が進みました。戦時における「工業化」の進展を通じて、朝鮮経済における工業の比重は高まります。総生産額における工産額の比重は40年には41.3%となり、農産額にほぼ並ぶようになりました。

■物的資源の収奪

戦時期に金や軍需用鉱物の増産が図られます。37年9月に制令「朝鮮産金奨励令」が施行され、この時期、朝鮮の産金量は年15~26トンであり、日本全体の産金量(23~27トン)の大半を占めました。38年6月には制令「朝鮮重要鉱物増産令」が施行され、鉄鉱石・石炭や、朝鮮で大量に産出していた黒鉛・雲母・マグネサイト・タングステン・モリブデン・明礬石・蛍石・重晶石など特殊鋼合金材料、軽金属材料となる鉱物や非金属鉱物の採掘が強化されました。

戦時期において、日本「内地」での徴兵よる農村労働力の喪失、米軍機の攻撃による台湾や南方からの米輸送の困難などの事情は、朝鮮米に対する需要を増大させます。総督府は40年に「朝鮮増米六カ年計画」を立てますが、旱害・水害による凶作が続き、それに加えて労働力の不足、肥料の不足などの要因が左右して、増産計画は挫折しました。総督府は39年から米の配給制度、翌年からは米の供出制度を実施します。これにより、農家は生産した米穀を翌年の種籾などを除いてすべて供出することが義務づけられ、自家米用の保有がいっさい禁止されます。41年から44年にかけて、米の供出量は、生産量の半分以上におよびました。

植民地朝鮮における「工業化」の進展をどう見ればいいのでしょうか。その投資はほとんど日本の大資本によるものでしたし、生産財・資本財供給と製品輸出はほぼ日本が相手でした。そのため朝鮮内の各工業部門間の有機的な連関は極めて弱く、朝鮮内の蓄積構造、個別資本の発展には直結しませんでした。日中戦争の拡大に伴い37年3月に重要産業統制法が朝鮮に適用され、朝鮮人資本家のなかで軍需産業の一翼を担った一部の大資本を除いて、朝鮮人企業の大部分が没落していきました。たとえば、38年に朝鮮人経営の会社数は全体の48%を占めていましたが、44年には9%に低下し、また資本面でも、38年に朝鮮人会社は払込資本金総額の12%を占めていましたが、44年には3%と低くなっています。戦時経済統制の強化によって、工業部門における朝鮮人資本の形成ないし蓄積は衰退過程をたどっていったのです。つまり朝鮮の工業は日本資本主義の従属的な一環であり、日本のための工業化だったのです。

康成銀(朝鮮大学校朝鮮問題研究センター研究顧問)

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