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越北科学者、李升基博士の家族史

2013年06月14日 10:24 歴史 共和国

化学、医学、音楽各界に人材輩出

チョン・チャンヒョン(国民大学教授)

平壌を訪問した際、ガイドとして出てくる北の民族和解協議会関係者に、ときどき戸惑うことがある。2008年6月にリ・オク教授に会った時もそうだった。

当初、訪北時に北側に依頼した取材内容の中には金策工業総合大学のリ・オク教授のインタビューが含まれていた。しかし、6月26日の午後に金策工業総合大学を訪問する時まで、北側ガイドはリ・オク教授のインタビューの件についてうんともすんとも言わなかった。筆者は当然、インタビューは無理であろうと判断し、諦めていた。

金策工業総合大学の電子図書館を訪れると、すでに何回か会ったことのあるキム・ソンイル館長が温かく迎えてくれた。彼の案内で電子図書館の中をまわった。

教授閲覧室などもまわって図書館を後にしようとした時、北側ガイドが「先生が会いたがっていた方がいらっしゃったのに、気づきませんでしたか?」と言ってきた。

「どなたですか?」

「リ・オク教授に会いたがっていたじゃないですか」

「まさか、リ・オク教授がいらしているんですか? それならなぜ前もって言ってくれなかったんですか?」

「先生を驚かせようとしたんです」

公式インタビューをしようとすれば複雑な手順を踏まなければならないということで、北側ガイドがリ・オク教授と自然な形で会えるよう、いろいろと取り計らってくれたのである。そうして私は、教授閲覧室で本を見ていたリ・オク教授に会うことができた。心の準備はできていなかったが。

北でビナロン(朝鮮ではビナロンという)開発者として有名な李升基博士の孫娘であるリ・オク教授は、南ではほとんど知られていない人物だった。当然、南のメディアと会うのも初めてだった。

リ・オク教授の祖父である李升基博士(1905~1996年)は、北で「ビニロン博士」と呼ばれ、「衣服革命」を主導した世界的な化学者であった。李升基博士は全羅南道・潭陽出身で、ソウル中央高等普通学校卒業後、京都大学で工業化学を専攻し、石灰石と無煙炭を原料として「合成繊維1号」であるビニロンを発明した。

彼は解放後、ソウル大学校の工科大学で学長を務め、朝鮮戦争の時に越北。その後、北の国家科学院の化学研究所長と咸興分院長を務め、労働英雄、人民科学者などの称号を授与されるなど科学者として最高の礼遇を受けた。

彼が越北する時の状況を、カン・ホジェ博士(梨花女子大学・統一学研究院)の研究を通じて再構成してみよう。

北からの招請受け

1947年のある日、「国立ソウル大学校設立案(国大案)」の余波を受け失職し、故郷である潭陽に戻っていた李升基博士を訪ねて、北から人がやって来た。

「李先生、このたびは苦労なさったそうですね。先生のように優秀な科学者が研究にまい進できず、後進の養成も満足にできない今の状況が残念でなりません」

「それは私の能力と信望がこの程度ということです」

「李先生、ここにずっといるつもりですか? 北に行きましょう。研究活動をしながら弟子も育てましょう。そして先生が開発したビニロンを工業化して、人々が暖かい衣服を着られるようにしましょう」

「私を高く評価してくれてありがとうございます。しかし、まだ私はここでやるべきことがたくさんあります。弟子たちから、潭陽で勉強させてくれないかとの連絡もありました。私の家族もみなここにいますし…」

「科学技術を軽視して支援もしてくれない米軍政を信じられますか? 北では人民委員会が科学技術発展のための手厚い支援を行っています。私と一緒に行きましょう」

「北も南も、どちらも私の祖国です。南でも科学技術の発展のためにさまざまな取組みが行われています。その中で私が関わっているものも少なくありません。すみませんが断らせていただきます」

「李先生、われわれは先生の才能と理想を高く評価しているのです。そして先生のこのような理想を実現することがまさに朝鮮のためになることだと思っています。先生のご家族はもちろん、弟子たちもみんなで一緒に来てください。ここで先生と弟子たちの才能を無駄にさせたくありません。われわれと一緒にやりましょう」

「すみませんが、考える時間をください。たくさんの人を連れて北に行くのはそう簡単なことではありませんので」

◇   ◇   ◇

1945年の解放当時、南北をひっくるめ大学を卒業した高級科学技術者は400人余りにしかならなかった。その中でも朝鮮に残っていた高級科学技術者は10人余りに過ぎなかった。

1946年10月、金日成大学(現在の金日成総合大学)が創立した後、朝鮮は南の科学者を招請するのに労力を使った。

1947年には興南化学工業大学を新しく設立した。この大学の初期の頃、教授陣の相当数は越北科学技術者たちであった。

当然、李升基博士も主な招請対象の中の1人だった。1946年から始まった朝鮮のたび重なる招請を断り続けた李升基博士は結局、朝鮮戦争の開戦直後である1950年7月、ソウルから南へ避難せず、越北した。自分の弟子も連れていった。

カン・ホジェ博士は「『李升基勢力』の越北だと呼ばれるほどに、化学工業分野の最高エリート科学技術集団の越北は、日帝が建設した各種の化学工業設備を正常に稼働させた」と評価している。朝鮮が李升基博士を特別待遇する理由が見えた。

実は、越北後の李升基博士の行跡を詳しく質問するためにリ・オク教授をインタビューしようとしたが、事前に通告を受けることができず、偶然の出会いのようになってしまった。

「人材センター」

-このようにお会いできてうれしいです。 専攻は何ですか?

金策工業総合大学を出て母校で化学を教えています。

-すると、お祖父さまと専攻が同じですね。

そうです。 細部は少し違いますが。

-お父さまも功勲称号を受けた科学者であると聞いているのですが、親子3代が科学者であるわけですね。

父は現在、金日成総合大学の触媒研究所の室長として仕事をしています。 主にアンモニア合成ガス、精製触媒を研究して火力発電所に触媒法による発電機冷却用水素精製システムを導入し、抗日闘争スローガンが彫られたスローガンの木の保存方法にも寄与しました。

-お母さまは?

金策工科大出版部の記者です。

-母娘が同じ大学で仕事をしておられますね。

そうです。

-祖父である李升基博士はどんな方だったのですか?

そうですね。 突然の質問だと…。 とても研究に没頭されたようです。 私には非常に多情多感な方として記憶に残っています。

-祖母のファン・ウィブン氏は2000年8月、第1回離散家族再会行事で南の兄弟の妻と甥(姪)たちにお会いになりましたが、まだご存命でいらっしゃいますか?

残念ながら2007年1月に亡くなって、祖父とともに合葬しました。

 

李教授の家系は3代にかけた科学者の家柄であり、教授家族としても有名だ。李教授の長兄であるスンイル氏は金策工業総合大学研究士、その妻キム・ユオク氏は医療部門再教育学校教員で、次兄のミョンイル氏は金元均名称平壌音楽大学教授、その妻キム・ヒャンミ氏は金策工科大教員だ。

また、姉の夫であるリ・ソンホ氏も金日成総合大学教授。李升基博士の家族を朝鮮では、「人材センター」と呼ぶ理由が分かるほどであった。

リ教授は「それぞれ部門と分野が違っても家族みんなの思索と活動は、最終目的である創造を目指している」といいながら、「化学、医学、音楽、教育など各自専攻分野が違うが、いつも意見を交換し、互いに手助けできるようにしている」と、少し恥ずかしげに話した。

もう少し家族史について聞きたかったが、次のスケジュールのために次の機会を約束するほかはなかった。「今後、立派な化学者になられるように祈りたい」という最後の挨拶をして閲覧室を出た。

あまりに忙しく、惜しい出会いだった。 朝鮮のガイドを恨んでも時はすでに遅かった。

(※本記事は「統一ニュース」より転載、翻訳と見出しは編集部)

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