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〈朝鮮戦争を再検討する(1)〉選挙と李承晩の内戦挑発

2012年06月22日 10:27 歴史

朝鮮戦争が勃発(1950年6月25日)して62年目を迎える。西側では、朝鮮戦争は北側が引き起こしたものとされ、その説が広く流布されている。朝鮮戦争についての地道な研究成果と新たに発掘した資料などを踏まえて歴史学者・白宗元氏が、その「定説」に対する反論を寄せた。4回にわたって連載する。

5月選挙の意味

朝鮮戦争勃発の直前、1950年5月30日に南朝鮮では「第2回国会議員選挙」が行われた。結果は、米国の強力な支持を受けた李承晩の見る影もない惨敗に終わった。これは李承晩による内戦の挑発につながった。

米国の軍用機で約40年ぶりに南朝鮮に帰って間もない李承晩が行った重要な演説は、「南朝鮮だけで単独政府を樹立し、軍備を整えて北伐を断行すべきだ」というものであった。これが悪名高い1946年6月3日の井邑(全南)演説である。

李承晩が「大統領」の座について公式に宣言したのは、「韓国政府は朝鮮半島における唯一の合法政府であり…武力によってでも北朝鮮に対する主権を回復する権限を有する」という内容である。明らかに民族分裂と戦争による「北進統一」を主張する李承晩の一貫した立場を示すものであった。

李承晩はソウルに以北五道庁(平安南北、咸鏡南北、黄海道)を設置し、「北伐」後の北側に対する行政を担当する知事まで任命した。

李承晩に反対する者は左右、中道を問わず暗殺された。著名な中道政治家・呂運亨が犠牲になった。平壌の南北連席会議に出席して南朝鮮に帰り単独政府樹立反対、米軍撤退を主張した右翼の巨頭・金九は朝鮮戦争勃発1年前に暗殺された。1949年には、反対派の国会副議長、国会議員の検挙が相次ぎ、「国家保安法」が改悪され死刑の適用範囲が拡大した。

総選挙では傍若無人の不正がまかり通った。官憲による選挙活動妨害、選挙間際の立候補者逮捕、反対勢力にたいするテロ等…。にもかかわらず473人も大量立候補した李承晩系の当選者は僅か57人に過ぎなかった。210議席の国会で圧倒的多数を占めたのは反李承晩勢力であり、南北連席会議の出席者たちであった。李承晩政権は事実上崩壊した。

民主主義のル一ルに従えば政権が交代し、これら反李承晩・平和勢力が政権の座に着くのが当然であった。

 開戦前夜

南朝鮮の情勢は大きく変わり、南北が平和と統一について話し合える有利な政治情勢が現実に生まれた。

金九、金奎植ら右翼政治家も参加した平壌での南北連席会議の合意に基づいて統一をはかろうとする北側が、この有利な情勢を無視し、同じ民族が流血の争いをする戦争を挑発したという米国や日本の主張は牽強付会にもほどがある。

1950年1月から友好国のソ連は、台湾問題をめぐって国連安保理事会をボイコットしていた。国連に加盟していない朝鮮にとって、これは国際的にきわめて不利な状況である。南北が話し合える有利な情勢にもかかわらず、わざわざ国際的に不利な時期を選んで北側が戦争を挑発するというのは全くありえないことである。

5.30総選挙で惨敗した李承晩政権の政治的危機は、蒋介石国民党政権崩壊の末期現象と共通するものであった。民衆の支持を全く失い孤立無援に陥った李承晩には、もはやどこにも生き延びる道は残っていなかった。

これは米国にとっても重大な危機であった。1949年10月、中華人民共和国の成立によって米国は中国から全面撤退せざるをえなくなった。5.30総選挙における李承晩政権の惨敗は、米国が中国に続いて南朝鮮からも撤退しなければならず、「トルーマン宣言」による「反共封じ込め政策」の破綻を意味するからである。このような事態に直面して、崩壊した李承晩政権を力ずくで維持したのは米国である。

敗戦当時、日本軍は北側の工場、鉱山、港湾、鉄道などの施設を徹底的に破壊した。北側がようやく復興に着手するのは戦争直前の1949年からである。困難な状況にある北側を侮り1947年以降、南朝鮮軍の対北侵犯は頻発し、38度線では事実上の戦争状態が続いていた。

存亡の岐路に立った李承晩は、強大な米国の軍事力を背景に、かねてからの主張である「北進統一」の道を突き進み、ついに全面的な内戦に火を付けたのである。

(白宗元・歴史学博士)

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