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〈遺骨は叫ぶ 23〉北海道釧路・雄別炭鉱

2009年02月23日 00:00 歴史

特高警察が監視、骨折すると治療せず切断/待遇改善求めて集団的抵抗

閉山のときに会社が建てた碑

閉山のときに会社が建てた碑

北海道釧路市街から約40キロ離れた阿寒川支流の舌辛川(現在は釧路市に編入されたが以前は阿寒町)の上流に、豊かな産炭地があることは早くから知られていた。しかし、運搬の条件にはばまれて本格開坑は遅れていた。最初に採掘したのは1896年で、石炭は船に積んで舌辛川を下り、3日がかりで釧路に着いたという。冬は川の結氷を利用してそりで運んだが、困難な輸送が隘路となり、10年ほどで中止している。

1933年に北海炭鉱鉄道株式会社が設立されて採炭を開始すると同時に、雄別炭鉱-釧路間に鉄道を敷設する工事に着手した。2年後に開通し、鉄道で送炭がはじまったが、大戦後の不況で経営が悪化し、1938年に三菱鉱業に買収され、社名を雄別炭鉱と変更した。しかし、日中戦争の拡大で雄別炭鉱でも増産体制を進めたが、戦争が激しくなるにつれて働き盛りの若い坑夫が次々と出征して労働力が不足し、出炭能力は低下して1941年を頂点に出炭量が落ち込んだ。雄別炭鉱では北海道内外から集めた鉱山勤労隊を入山させ、坑内でも働かせたがそれでも労働力が不足して出炭は増加しなかった。石炭が不足して操業を停止する工場がでたり、女子の坑内労働の許可を厚生省命令で出したりした。

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