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黙々と支え続けて45年/「ウリハッキョだったから」

2018年05月10日 10:03 主要ニュース 民族教育

感謝の中、広島初中高教育会の主任ら退任

5月をもって広島初中高教育会の事務職を退任する盧和子主任(65)と申松子主任(67)を慰労する会が4月30日、同校で行われ、同校の教職員や2人にゆかりのある人たち約30人が出席した。

長年の労をねぎらう参加者たち

会は総聯広島県本部の李兌烔委員長と教育会の李正雄相談役(63)のあいさつで始まった。

それぞれ約45年(盧主任)、30年(申主任)の間、広島県内の朝鮮学校の教育会で事務員を務めた2人の経歴が紹介された後、李兌烔委員長が、在日本朝鮮人教育会中央理事会から送られた感謝状を手渡した。

李兌烔委員長は「事務員は目立たないが、仕事量も多く大変だ。しかし2人は誰が見ていようといまいと、民族教育の発展、そして子どもたちのために、責任感を持って働き続けてくれた」と、敬意を表した。

会では、参加者らが慰労の意を込めた公演を披露し、金英雄校長と教育会の李秀福会長から退職する2人に花束が贈呈された。また、教員たちから記念品が手渡された。

盧主任は「このような場を準備してくれてありがたく思う。感謝状をもらえるなんて夢にも思わなかった。長い間、色んなことがあったが、これまで続けてこられたのは、一緒にいてくれた教員たちや教育会のメンバーのおかげ。本当にありがとう」と声を震わせていた。

花束を受け取る申松子主任(左から2番目)と盧和子主任(3番目)

 「誇りに思う」

申松子主任は四国初中、広島中高を卒業し、総聯愛媛県本部の中予支部に務めた。その後結婚して広島に移り、当時の広島第1初級の教育会で事務員として5年、広島中高で1年ほど働いた。1996年、広島第1初級と広島中高が統合され、広島初中高としてスタートしてからは、幼稚班や寄宿舎を中心に事務員として働き続けてきた。30年間の事務作業、特に現在の校舎に移ってからのおよそ22年は「あっという間だった」という。

一方の盧和子主任は広島中高を卒業後、そのまま同校の事務職に就いた。それから45年、学校運営の「陰」として働き続けた。「事務は本当に目立たない裏方仕事。ただ黙々と45年間、働いてきた」と笑う。

同じ学校で働く教員と比べると、作業は「地味」なものが多く、評価されることも少ない。やりがいを感じる機会も多くはなかった。李正雄相談役は「他人には言えない、辛いこと、苦しいこともあったと思う。それでも組織、学校のために仕事を続けることは、誰にでもできることではない」と話す。それでも続けてこられたのは、学校の大切さを身に染みて感じていたからだった。

教員からは記念品が手渡された。

申主任は中級部入学まで日本学校に通った。日本学校で受けた社会の時間に「韓国は遅れた農業国家」と言われ、恥ずかしさで授業中、ずっと下を向いていた。その後、朝鮮学校はみんなが朝鮮人という話を聞き、その「当たり前のこと」に感動を覚えたという。

盧主任は、広島県海田の同胞トンネで、「日本学校の子とケンカしながら」育った。その中で育んだ民族心が、45年の間、「縁の下の仕事」を続けられた要因だという。

嫌なこともあった。日本の会社だったら辞めていたかもしれない。だけど、ウリハッキョだったから続けられた。2人はそう口をそろえる。

「教員ではない自分たちが、この神聖な民族教育の場で働けたことを、誇りに思う」(盧主任)

退職を前にしても、学校への思いは尽きない。今も続く学校に対する差別、弾圧。とりわけ胸を痛めているのは、生徒数の減少だという。しかし、「情勢がいくら変わろうとも、民族教育は決して変わってはいけない」。盧主任はそう強調しながら、「学校を離れても、広島初中高の良い話が聞きたい」と微笑んだ。

現在の校舎に移ってからは、同じ部屋で毎日顔を合わせながら、共に広島の民族教育を守って来た。申主任は「一緒に働いたのが盧和子でよかった」という。2人は、お互いに労いの言葉を交わしながら、照れ臭そうに笑っていた。

(金孝俊)

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