「オレの心は負けてない」/在日の性奴隷制被害者、宋神道さんお別れ会
2018年03月01日 13:38 主要ニュース闘い抜いて苦痛から解放遂げた半生
昨年12月16日に死去した日本軍性奴隷制被害者である宋神道さんのお別れ会(主催・在日の慰安婦裁判を支える会)が2月25日、都内で行われた。日本、南朝鮮の支援者、在日同胞など、約160人の支援者、市民らが参加し、宋さんの遺影に献花した。お別れの会では、日本在住の被害者として、唯一人、日本政府に対する謝罪・補償裁判を闘った宋さんの活動をまとめた映像が上映され、支援者たちが思いを語った。
在日被害者として提訴
宋神道さんは、1922年、忠清南道・論山で生まれた。数え16歳の時に、母の決めた相手との結婚が決まったが、式当日に逃亡。その後、大田で朝鮮人女性に騙され、中国中部・武昌の慰安所「世界館」へ連行された。後に、漢口を経て、日本の第11軍司令部のあった岳州の「慰安所」に連れていかれ、長安、応山、蒲圻などを「部隊付き」として転々とした。宋さんの「慰安婦」生活は、7年に及んだ。
日本の敗戦は咸寧で知った。行く宛のなかった宋さんは「結婚して日本に行こう」という日本軍人の言葉に騙され、46年春、引き揚げ船で博多港に渡ったが、軍人は到着後、宋さんを突き放した。その後、宮城県女川町在住の在日朝鮮人男性に出会い、男性が亡くなる82年まで共に生活した。
91年に南の金学順さんが日本政府に謝罪・補償を求め提訴したことを知った宋さんは、自らも訴訟を決意。93年4月、日本在住の被害者として初めて、謝罪と補償を求め提訴した。2003年3月、最高裁は上告を棄却、敗訴が決定した。
07年には、宋さんの10年にわたる裁判を記録したドキュメンタリー映画「オレの心は負けてない」が公開され、反響を呼んだ。
その後、11年3月11日、東日本大震災で被災。津波で家を流され、女川町の体育館に避難した後、東京に渡り、「在日の慰安婦裁判を支える会(以下、支える会)」のサポートの下、生活した。
日本軍「慰安婦」メモリアルデーデモ(12年8月15日)、第12回アジア連帯会議(14年6月2日)への参加をはじめ、「二度と戦争をしてはならない」と各地で精力的な訴えを続けた宋さんだったが、95歳の誕生日を迎えたわずか1カ月後の昨年12月16日午後2時、東京都内で老衰のため死去した。宋さんの遺骨は2月11日に南の「望郷の丘」に埋葬された。
支援者との心の交流
“「慰安婦」問題を子どもたちの時代にまで持ち越さないように、勇気を持って、きちんとした解決になるよう判決を出してください。私ひとりのためでなく、今でも隠れている他の『慰安婦』の心の傷を解く、血の通った判決をだしてください”(00年10月19日、宋神道さんの東京高裁最終意見陳述から)
日本在住の被害者として初めて、謝罪と補償を求め提訴した宋さんは、自らの辛い過去を吐露し、裁判を闘った。敗訴後も「裁判に負けても、オレの心は負けてない」と決して屈することはない堂々とした姿は、多くの人の心を動かし、日本軍性奴隷制問題に対する取り組みへの共感を広げた。
25日、午後1時半、真っ白なゆりの花で囲まれた献花台の前には、宋さんを偲ぶ人たちが列を作り、支援者たちはそれぞれに宋さんへの思いを語った。
「朝鮮人であることを誇りに思っていながらも、日本のひどい差別の中で、『(日本で)チマ・チョゴリなんて着れるか』と言っていた宋さん。最期の時だけでも、自信たっぷりにチマ・チョゴリを着てほしく、チマ・チョゴリを準備した」
チマ・チョゴリ姿でにっこりとほほ笑む宋さんの遺影の前に立った「支える会」の木野村照美さんの目には大粒の涙があふれた。最期の時、宋さんが身に着けたチマ・チョゴリは、裁判から最期の時まで傍らで支え続けた支援者たちが準備したもの。10年に及ぶ裁判を共に闘い、証言活動を行う中での支援者との心の交流は、日本社会に差別され拒絶され続けた宋さんを癒し、尊厳を回復する過程でもあった。
「(支える会と出会い)悔しい気持ちが半分吹っ切れた」というのは、生前の宋さんの言葉。木野村さんは、「『二度と戦争はしてはいけない』と繰り返し訴えた宋さんの言葉を噛みしめ、宋さんの『残り半分の悔しさ』を晴らしていきたい」と語った。
92年に市民グループが主催した「慰安婦110番」の情報をもとに、宋さんを初めて訪ね、その存在を世に伝えるきっかけを作った「支える会」の川田文子さんは、当時、「戦争の時の話を聞きたい」と尋ねた際、「ああ、よかった」と嬉しそうな表情を浮かべた宋さんの姿を記憶する。「宋さんの証言を聞きたいという思いがきっかけとなり、支援の輪がつながった。今日は、各地から宋さんを思う人たちが集まったことを誇りに思う。宋さん、本当にありがとう」。
「戦争への道を許さない女たちの仙台の会」の高橋順子さんは、宋さんが宮城県女川に在住していた際、支援に携わった。「今も、女川の町に車で向かう途中、青い海が見えるたびに『戦争は二度とするな、オレのようなおなごを作るな』と言った宋さんを思い出す。その言葉を忘れず、活動していきたい」と語った。
周りを変えた宋さんの姿
会場には、裁判関係者の姿もあった。弁護団の中下裕子弁護士は、弁護士としての原点を宋さんから学んだと振り返る。