軍隊の性暴力、続く沖縄/wamで企画展
2013年06月03日 16:21 主要ニュース戦時の慰安所、戦後の米兵による強かん…被害の実態
アジア太平洋戦争の末期に沖縄県に作られた日本軍の慰安所の実態や、戦後の米軍駐留下の性暴力について、証言や資料で伝える企画展が、東京・新宿区の「女たちの戦争と平和資料館(wam)」で開催されている(昨年6月~)。
企画展では、戦中・戦後にかけて今なお続く軍隊の性暴力に焦点が当てられている。
朝鮮人「慰安婦」の被害も
「軍隊は女性を守らない 沖縄の日本軍慰安所と米軍の性暴力」と題した企画展では、本土決戦までの時間稼ぎの戦いを強いられ、多数の住民が犠牲となった沖縄戦の被害の概要にはじまり、日本軍「慰安婦」問題の実態、そして戦後から現在にかけて続く米軍による性暴力に関する資料や証言を掲載したパネルが展示されている。
1944年3月、米軍の侵攻に備えて沖縄に日本軍(陸軍第32軍)が配備されて以来、沖縄戦開始までの1年の間に、沖縄全域に延べ130カ所以上の慰安所が設置された。
これらの慰安所では、朝鮮半島から連れてこられた朝鮮女性たちをはじめ、沖縄の遊郭の女性たち、そして少数ではあるが福岡、長崎など九州から来た女性たちが酷使されていた。
企画展では、住民や被害女性、元日本兵の証言や、公文書、沖縄県史や市町村史などをもとに作成された日本軍の慰安所マップが展示されている。
また展示コーナーの一角には、日本軍「慰安婦」だったことを初めて名乗り出た故・裵奉奇さんの半生を紹介したパネルと、晩年の裵さんのようすをうかがい知ることができる遺品の数々が並んでいる。
「金儲けができる」と騙されて日本に連行され、1944年11月に日本軍の輸送船で沖縄に運ばれた裵さん。特攻艇の秘密基地があった渡嘉敷島の慰安所に数人の朝鮮人女性たちと共に入れられ、「慰安婦」としての悲惨な生活を強いられた。
一方、裵さんが送り込まれた慰安所の近くに暮らしていた村民の証言も並ぶ。
「あどけない少女のような朝鮮の娘たちが毎日、目を真っ赤に泣きはらしている姿に、胸が締め付けられる思いをしていた」
「当時私は6歳で、従姉が家畜に餌をやりに行く時、私も唐辛子を持って付いて行き、『慰安婦』の人たちにプレゼントした」
沖縄で「慰安婦」にされた朝鮮人女性の被害者数は今も不明であるが、多数の証言などによってその被害の実態が明らかになっている。
歴史改ざん、続く軍の横暴
戦時の性暴力をめぐる被害と加害について調査し展示活動を行っているwamは、「慰安婦」問題や性暴力問題に取り組んできた沖縄の女性たちと共に今回の展示を企画。
展示物1セットは沖縄に送られ、沖縄各地で巡回展が行われた。昨年6月15~27日まで那覇市との共催で行われた「沖縄戦と日本軍『慰安婦』展」では、2週間で1850人もの来場者が訪れた。開催期間中には、慰安所に関する新たな証言も寄せられたという。
沖縄「復帰」40周年を迎えた昨年、奇しくも沖縄をめぐる歴史問題、そして米軍の性暴力が再びクローズアップされる事件が起きた。
3月、県内外からの反対を押し切って、第32軍司令部壕(那覇市首里)に、司令部壕内の「慰安婦」の存在や「住民虐殺」の事実を削除した説明板が設置された。
10月には、米兵2人による強かん事件が発生し、沖縄県民の怒りは頂点に達した。
館長の池田恵理子さんは、「(企画展開催は)時期的にぴたっと合っていた」と話す。
また最近では、日本維新の会共同代表の橋下徹・大阪市長の「慰安婦」容認発言が物議を醸した。日本のみならず、海外や国際機関からの批判も相次ぐ中、戦中の「慰安婦」制度をめぐる内外の認識のギャップも浮き彫りになった。
池田さんは、「『慰安婦』制度は必要だった」「(米兵の性的エネルギーをコントロールするために)風俗業を活用して」などとした橋下市長の発言について、「橋下氏の主張には、強かん対策、兵士たちのストレス解消などを目的に慰安所を作った当時の日本軍の考えと相通ずるものがある」と指摘する。
「性は売り買いできるものだという人権意識を持つ人が政治的リーダーを務めているというのが、今の日本の現況」
wamでは、この企画展を6月末まで開催している。
東京都新宿区西早稲田2-3-18。東京メトロ早稲田駅から徒歩5分。午後1時~6時。月、火曜と祝日は休館。
(金里映)