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〈本の紹介〉辺見庸著「国家、人間、あるいは狂気についてのノート」を読む/ 河津聖恵

2013年04月16日 16:06 文化・歴史

「内面化された『私達のファシズム』」をあぶり出す」

大震災以後この国では、表層と深層、国家と人間、身体と心、言葉と意味の乖離が、もはや止めようもなく進行している。深層が表層を突き破り、新たな災厄や戦争が始まる予感がする。前兆はどこにあるか。破滅を食い止めるために何が出来るか。私達は今を覆う明るい闇に眼をこらし「暗順応」し、「正気」を装う「狂気」を「視かえし」、実相を突きつけていかなくてはならない。本著は今なお見者たらんとする者に、「じっと視かえす」位置と方途を、魂を抉るように指し示してくれる。

毎日新聞社、1,800円+税、03-3212-3257

冒頭で、メディアが総力をあげて隠す「日本的情念の古層」が指摘される。情念の発動には、恐怖と快楽の脳内回路の短絡が関わる。二.二六事件の首謀者が「あの快感は恐らく人生至上のものであらふ」と記したそれは、今「ファッショ的紋様となって表土にあらわれている」。それに応じるように、人や事物からアウラ(=「ひとがただよわせる名状しがたい気配)が失われていく。政治家は勿論、言葉と声からも。もはや全ては本質から脱落した「スメグマ」(恥垢)だ。著者は痛切に叫ぶ。私達は「なにをしたくて、いままで生きてきたのか」「今日のこの日を見たかったのか」「言葉ははたしてつうじてきたのか」「わたしたちは、狂者か半狂者であることをわすれている」…世界を満たしていく偽りの欲望、自己幻想、死者である生者たちのおぞましい死者の夢。現実の泥は悪夢の通りにこね上げられていく。もはや事態は絶望か。だが真の絶望だけが世界を「視かえす」力をもたらすのだ。「狂者の目」だけが、正気を装う世界から狂気の実相を暴き出す。

次々突き出される実相は鮮烈だ。「甑(こしき)から遠くはずれた、方向をもたない」狂える「天翔ける輻(や)の群れ」という圧倒的なイメージは、互いに相争い破滅へ突き進む民衆や市民の狂気のあられもない姿。向かい合う無人の監房の闇に「いない」自分が座るという死刑囚の歌にある光景は、私達自身の「奪われた意識の空洞」に居すわるものの正体=「われ知らず内面化された『私達のファシズム』」をあぶり出す。あるいは一九四二年中国・山西省の陸軍病院で、生体手術演習を行うために、怯える「患者」に「麻酔をするから痛くありません。寝なさい」と優しく囁きかけ、患者が頷き手術台に仰向いた後、「ペロリと舌をだしてみせた」日本人看護婦の口腔の闇。それはそのまま「『いま』という開口部のさり気なさ、底深さ」にある「罪と恥辱」そのものだ。「歯の根もあわぬほど躰をふるわせ」、男が眼の前まで後じさってくると、「両の手で彼の背を手術台のほうに押しやった」新米軍医の手の触覚は、今ここにある「私」の手のそれと無限に交錯する。手術台を取り囲む「ユーモアも人情も解する」「およそはげしく疑るということのない、こよなき正気の輪」は、同心円内に今このときを「いっかな逃れようもなく」含み続ける。七十年前の手術室の光景は、まさに現在のマイノリティとマジョリティの関係にひそむ狂気の実相である。

だがそのような想像の作業=現実と実相の往還こそが抵抗の砦を作る。過去の光景から今を「視かえす」ことが、今の私達に私達を超える「人倫」を発動させるのだ。たとえ伝聞であれ「ひとたび光景の一端を知ってしまえば、時を超えて無限の作業仮説」を強いられる、という「人倫」の謎。一度過去から今を「視かえす」ことを経験すれば、手術台を取り囲む人の輪から私はもう外に出ることは出来ない。「もう抜けでたと思っても、ふと気づけば私はかならず輪の圏内に立っている」。無限に立ち戻る私はつねに輪の内で、舌ペロリの看護婦に笑みさえ返し、患者のふるえる背を両手で押し戻してしまう。何度も何度も。そのように「あえて輪の圏内にみずからを立たせてあれこれ試問しつづけるにしくはない」。その作業こそがみずからの内奥から恐怖と罪と恥辱を、おのずとそして決定的に抉り出すのだ。その「試問」=「審問」は辛いが、むしろその辛さゆえに、現在の「石化、狂気」を「生き生きとした死、活発な石化」に変えていく。やがては「狂気がどんなものでありえたかがわからなくなる」現在の苦痛に、「ささやかな希望か出口」をもたらしていく。

今、一人「狂気の海溝」を歩む著者は、「狂者の錯乱した暗視界の奥」から、「いかにも正気をよそおう明視界の今風ファシストどもを、殺意をもってひとりじっと視かえ」している。私はその眼力=言葉の力に、今なお生きんとする力を掻き立てられて止まない。「否定的思惟」のゆたかさと、絶望のずっしりとした重さ、そしてそれゆえの詩の美しさによって。本著はまさに「巨大な海綿状」の虚無とさえ引き合う詩だ。私はあらゆる系を断ち切られ、やがて「視かえす」殺意のありかとしての、闃然(げきぜん)とした「内面の静けさ」を身の内に知る。

(詩人)

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