〈朝鮮考古学に捧げた生涯-有光教一先生が遺されたもの(下)〉九州大学名誉教授・西谷正
2013年03月22日 13:57 歴史 主要ニュース原始・古代朝鮮の日本への影響
75年ぶりの研究成果
三韓は、早ければ3世紀中ごろ以後、百済・加耶・新羅の古代国家の成立へと向った。それに先立ち、北部では高句麗がいち早く紀元前1世紀はじめごろに国家形成をなし、紀元後の313年には楽浪郡を滅ぼすまでに発展し、いわゆる三国と加耶の時代が展開した。有光先生はまず、1936年に平壌北東郊外で2基の高句麗壁画古墳の発掘に参加されている。その一つの高山洞1号墳には四神図が描かれていた。この古墳に対して、一昨年、75年ぶりに日朝共同で再調査が実施された。壁画の保存状況は予想以上に良好で、赤外線写真撮影など貴重な記録が残された。
つぎに百済に関しては、有光先生は中期と後期の都があった忠清南道の公州と扶余で、それぞれ宋山里の古墳と窺岩面の寺院跡の発掘を手がけられた。後者の際に出土した文様塼は、現在も国立扶余博物館の展示品の目玉の一つとなっている。ところで、百済南部の栄山江流域は、大形甕棺墓という特色ある墓制が見られる。有光先生は1939年に羅州において大形甕棺を主体とする新村里6号墳などを発掘されたが、その契機は地形が前方後円墳の外貌を髣髴とさせ、前方後円墳に類似すると見なされた点にある。結果的には、前方後円墳に似たものとされながらも、断定は避けられた。とはいえ、解放後の1980年いらい現在まで、とくにその被葬者をめぐって議論が絶えない前方後円墳の問題の先駆けとなった。
新羅古墳の発掘は、有光先生が1931年に朝鮮に渡られて最初の仕事であった。李朝時代の邑城の南側に広がる邑南古墳群の4基を発掘されたほか、解放後も残留を命じられて1946年に朝鮮人による初めての発掘を支援された。その際、偶然にも「乙卯年(415)国岡上広開土地好太王壺杅」という文字を刻んだ銅合子が出土したことから、路西里140号墳は壺杅塚と命名された。この銘文から、5世紀はじめごろの高句麗と新羅の密接な交流を物語る貴重なものとなっている。
解放前には、加耶の遺跡が「任那日本府」説とも絡んで、ほかの三国の遺跡のような独自の展開を見なかったことは否めない。そうした学界を取り巻く状況下で、有光先生も大加耶国の故地に当たる慶尚北道高霊における主山の古墳群の1基を1939年に発掘された。このときの報告書が63年ぶりに2002年に刊行されたことは驚嘆に値するが、それ以上の展開は見なかった。その点で、解放後の加耶に対する調査・研究は飛躍的に増大した。加耶は、ヤマト王権にとって、鉄の供給源であり、また、外交の拠点となる地域であって、きわめて重要な位置にあった。最近、金官加耶国の故地に当たる官洞里において、古金海湾の海辺に立地する道路・倉庫群そして桟橋を備えた船着場からなる遺跡が調査された。加耶と倭の対外交流にとって、特筆すべき遺跡として注目される。
人身獣首の十二支像に交流の足跡
加耶諸国は、金官加耶国が532年に新羅に投降したことをきっかけに滅亡への道を歩むが、562年の大加耶国の滅亡をもって終止符が打たれた。新羅はその勢いに乗って、また、唐と連合して、百済についで高句麗を滅ぼし、7世紀後半にいったん朝鮮半島を統一するが、やがて8世紀はじめに北方で渤海が誕生し、新羅と渤海の併存を迎える。有光先生は、そのころ新羅王京に築かれた慶州市忠孝洞の横穴式石室墳10基を発掘された。三国時代の新羅では、6世紀前半に高句麗から仏教が伝来して以後、それまでの積石木槨墳に替って横穴式石室が出現し、後期新羅へと続いた。その横穴式石室の変遷を考えるとき、忠孝洞古墳群がもっとも基準となるのである。また、当時の王陵には、しばしば円墳の裾まわりの外護列石に十二支像が彫刻されている。その十二支像や王陵に対して先駆的な業績を残された。奈良県のキトラ古墳は、7世紀はじめごろの壁画古墳として知られるが、その中に描かれた牛や寅の頭部と、胴体は人という人身獣首の十二支像を見るにつけ、後期新羅との交流に思いをいたすのである。
新羅王京の南山には、王都の南の守りとしての南山城が築かれた。一方、南山の深山幽谷には数多くの石仏・石塔などが造営され、さながら新羅仏教の一大霊場の観を示す。この南山仏跡に対し、昭和に入って本格的な調査が行われたが、有光先生も慶州滞在時に参加されている。現在のように大切に保存され、学習や研究に多くの人びとに活用されるとき、往年の基礎作業の成果が大いに役立っているのである。
最後に、有光先生は青年期に朝鮮をフィールドとして考古学的調査に従事されたが、帰国後も終生、朝鮮考古学の道一筋の生涯を過ごされた。とはいえ、つねに日本考古学への関心を持ち続けられた。そのことは、奈良県で1972年に高松塚古墳が発見されたとき、高句麗古墳壁画の学識から四神図に対して積極的な発言をされたことに象徴的に現れている。原始・古代の先進地であった朝鮮が日本に与えた影響の大きさに鑑みて、そのように、有光先生の日本考古学への貢献も忘れてはならない。
(九州大学名誉教授)
有光教一(1907~2011)
考古学者。専攻は朝鮮考古学。京都大学教授、高麗美術館研究所所長などを歴任。