「慰安婦」の体験語り継いで20年、李容洙ハルモニの話


ハルモニの話に耳を傾ける聴衆

〝証言は私の命と同じ〟

15歳の頃日本軍に「従軍慰安婦」として強制連行された李容洙ハルモニの証言集会「李容洙ハルモニ 今を語る~被害者として名乗り出てから20年」(主催=川崎から日本軍「慰安婦」問題の解決を求める市民の会、以下「求める会・川崎」)が9月12日、神奈川県川崎市のエポックなかはらで行われた。同胞、日本市民など、会場が満席になるほど多くの人々が訪れた。

まず、「求める会・川崎」の川崎森子共同代表があいさつに立った。

「求める会・川崎」の活動は2008年から始まり、川崎市議会で日本軍「慰安婦」の早期解決を求める意見書を市議会に提出し採択されるよう取り組んできた。市議会には6千筆の署名を提出、講演会、映画会などを開催し、市民にもアピールしてきた。川崎共同代表は、「川崎市議会でこの問題における意見書が採択されるよういっそう強固な運動を行なっていきたい」と述べた。

次に、李容洙ハルモニが、日本の植民地時代、「従軍慰安婦」として強制連行された辛い体験について語った。

「証言は私の命と同じ」と話す李さんは、1928年12月13日、慶尚北道大邸市に生まれた。

李さんが15歳だったある日、夜中に窓の方から物音がしたので近づいてみると、外に日本の軍人がたっていた。何が何だかわからなかった李さんはそのまま連行され、汽車に乗せられた。

「私はいかない。お母さんの所へ帰ると言ったら軍人が、石より硬い拳と靴で殴って蹴った。足の裏、手の裏を大きな棒で何度も強く殴られた。それは手や足を腫らして逃げられないようにするためだった」

朝鮮語でしゃべると髪を掴まれさらに殴られた。

李容洙ハルモニ

李さんたちは、慶州、平壌、安州、大連に行き、船に乗って台湾の新竹海軍慰安所へと連れて行かれた。着物を着せられ、「言うこと聞かなったら殺す」と脅されながら毎日性暴力を受け続けた。

その中に一人、李さんを「とし子」と呼ぶ21歳の優しい特攻隊員がいた。ある日の夜、その特攻隊員は夜空を見上げながら李さんに、「とし子、明日俺は死ぬ。死んだらあの星が一つ落ちる」といいながら泣いていたという。次の日もその次の日も、毎晩同じ場所でその青年を待ったが二度と現れなかった。そのときのことがいまでも思い出されるという。

1945年8月、日本の敗戦とともに、李さんたちは解放された。李さんは当時17歳だった。

李さんが姿を消したあと、毎晩酒びたりになった李さんの父は、李さんが帰ってきたあと病死、李さんの母もまた、死んだと思った娘が突然現れたことに精神的ショックを受け、寝込んだままこの世を去ってしまった。

あまりにも凄惨な体験を長い間隠し続けてきた李さんだったが、1992年6月25日、勇気を振り絞って被害者として名乗りを上げ、今日まで20年間アメリカ、カナダ、フィリピン、台湾などでも証言と抗議活動を行ってきた。

「今でも日本に対する恨(ハン)は消えないが、日本と韓国は隣の国。若い人たちが手をつないで仲良くできるように、日本はちゃんと謝罪、補償をしなくてはいけない。私が生きているうちに、早く解決しなくては。日本軍慰安婦の問題が解決されれば、世界の性暴力もきっとなくなっていくはず」

20年前に李ハルモニを最初にインタビューした同会共同代表の長沼節夫さんは、日本の言論の弱さと無力さにあきれているとし、「しかし、今日多くの聴衆が集まったことに、日本の民主主義に希望が見えた。決して諦めてはいけない。絶望せずに頑張っていこう」と呼びかけた。

猪俣美恵川崎市議は、市議会に4回も意見書が出されていながら採択できていないことについて陳謝しながら、「解決済みと言うならば、何がいつどう解決したのか、一人ひとりの委員が知っているべき。ただ国が決めているからという理由で反対するのは許せない。次また機会があれば必ず通せるよう頑張りたい」と話した。

集会の最後に、川崎市のふれあい館から来た「トラジの会」と李さんが「アリラン」「トラジ」を歌った。

(朝鮮新報)