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〈朝鮮新報創刊70年・記者が語る歴史の現場 15〉6.15時代の熱気

分断史上初の北南首脳会談開催と6.15共同宣言採択は、朝鮮新報記者の取材環境を変え、活動領域を広げた。1970年代から90年代までも北南会談、交流事業の現場に朝鮮新報記者の姿があったが、2000年6月…

〈朝鮮新報創刊70年・記者が語る歴史の現場 12〉朝鮮学校生のソウル・全州公演

朝鮮半島の分断は、在日コリアンの暮らしにも大きな影響を与え、日本から南北を自由に行き来できない不幸な歴史が続いてきた。 だからこそ2002年9月、朝鮮半島の分断史上、そして民族教育史上初めて朝鮮学校の…

〈朝鮮新報創刊70年・記者が語る歴史の現場 11〉平壌支局の現地取材

1980年代半ばから、朝鮮新報の多くの先輩記者たちが祖国と日本を往復しながら、祖国報道の道筋をつけた。平壌に支局が開設されたのは88年12月。常駐体制が整い、祖国関連報道の新境地が開かれた。在日同胞の…

〈朝鮮新報創刊70年・記者が語る歴史の現場 10〉土曜紙、日曜版、そして日本語版18

在日同胞社会に世代交代の波が急激に押し寄せてきた。朝鮮生まれの一世の比率は1969年に27.4%、74年には24.1%にまで減少していた。(法務省入国管理局統計)つまり74年に朝鮮生まれは4人に1人で…

〈朝鮮新報創刊70年・記者が語る歴史の現場 9〉コリア統一チーム/呉広仁

1991年2月。分断以来初となる「統一チーム」の誕生が発表された。4回にわたる北南体育会談で、北と南のスポーツ選手がコリアの名前で統一チームを組み、第41回世界卓球選手権大会(4月~5月、千葉市)と、…

〈朝鮮新報創刊70年・記者が語る歴史の現場 8〉空前の「ピョンコマ」ブーム(下)

先週は、空前の「ピョンコマ」ブーム(78年)について紹介したが、2年後に訪日した国立ピョンヤン芸術団人気も凄かった。当時朝鮮最高の舞踊家とうたわれたホン・ジョンファ、主席が大ファンだったと伝えられた民…

〈朝鮮新報創刊70年・記者が語る歴史の現場 7〉空前の「ピョンコマ」ブーム(上)

今から37年前、日本列島は空前のピョンコマ(ピョンヤン学生少年芸術団)ブームに沸きに沸いた。当時、子どもだった人は今すでに壮年期を迎えただろうが、彼らの胸には「永遠のピョンコマ像」が刻まれ、その輝きは…

〈朝鮮新報創刊70年・記者が語る歴史の現場 6〉祖国往来の半世紀/金慶五

「40余年目に祖国を訪ねた李仁洙、李光勲の2人の同胞高齢者が1月28日(1966年)の朝、日本に帰ってきた。…40余年前、日本に来たとき、誰が港で迎えてくれただろうか」。こんな出だしで、朝鮮新報は初め…

〈朝鮮新報創刊70年・記者が語る歴史の現場 5〉改悪法案を撤廃に/殷宗基

「韓日会談」を妥結させ、「韓日基本条約」をはじめ「在日韓国人の法的地位協定」を調印、批准した日本政府は、在日同胞の抱き込みと、管理・差別政策を協力に推し進めた。

〈朝鮮新報創刊70年・記者が語る歴史の現場 4〉「韓日会談」反対運動/殷宗基

暮らし(生活)と、それぞれの存在(尊厳ー誇り)を守る闘いの日々であった。朝鮮半島を追われ、さらには強制連行され日本での生活を数世代にわたりつないでいるのははらから(同胞)の明日をどう生きるかの切実な問…

〈朝鮮新報創刊70年・記者が語る歴史の現場 3〉帰国事業/韓桂玉

「マンセー(万歳)!」「マンセー!」…1959年12月12日午前9時20分、祖国ー朝鮮民主主義人民共和国からやってきた帰国第1船を迎えた新潟埠頭は、歓喜と感動のるつぼと化した。 「私たちには祖国があっ…

〈朝鮮新報創刊70年・記者が語る歴史の現場 2〉祖国から教育援助費/魯且分

朝鮮人であれば、日本に住もうが南に住もうが、またそのほかの国に住もうが、知らない人はいない「金日成将軍の歌」を歌うたびに、いつも私は胸が熱くなるのを感じる。

〈朝鮮新報創刊70年・記者が語る歴史の現場 1〉同胞とともに不屈の気概貫く/金炳元

朝鮮新報(当初は民衆新聞)は10月10日、創刊70周年を迎える。日本の過酷な植民地支配の解放から2カ月足らずで、在日同胞の声を代弁し、その権益を守るメディアが誕生したことは、内外の人々の圧倒的な支持と…