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〈本の紹介〉くず鉄一代記/ 姜福心さんが自伝

2016年10月27日 17:33 主要ニュース

「目と耳と口があればどこでも生きていける」

姜福心さん。92歳。亡き夫とともに防府市にある梁川鋼材、パチンコなど関連会社も手広く営み、財を成す。かつて取材のため、防府駅前から自宅までタクシーに乗ると、女性運転手さんが「あの、梁川さんね」と、立志伝中の女性としてこの辺りで知らぬものはいない、と教えてくれたことがある。

このほど、姜さんの「くず鉄一代記 目と耳と口があればどこでも生きていける」と題する560㌻にわたる自叙伝(日本語)が刊行された。余りにも面白く、率直で、泣けて笑えるヒューマンドキュメント伝記に仕上がっている。

問い合わせは=朝鮮新報社図書部、電話03=6820-0111。

問い合わせは=朝鮮新報社図書部、電話03=6820-0111。

日本の植民地支配の最中の1924年、全羅南道珍島で生まれた。両親と男5人、女7人の兄妹。春窮期には食べ物がなくなり、食料事情が悪化したという。「一匙のご飯を求めて家々をめぐる乞食が増えた」と梁さんは幼い日の記憶を記す。そんな暮らしの中で、姜さんは「学校にいきたい」と渇望した。しかし、秋の収穫物を根こそぎ日本と地主に奪われてしまった極貧家庭では、女が学校へ行くことなど夢のまた夢。向学心を捨て切れない梁さんは、学校に通う従兄弟に紙に字を書いて貰い、それを教本にして必死に独習を重ねた。

紙も鉛筆もない中で、毎朝、柴をたいた灰の上にそれを小枝で書き、1字1字覚えていった。「1週間も経つと、家族の名前が全部書けるようになり、もううれしくて、うれしくて。牛小屋のすすで真っ黒になった泥の壁に、覚えた字をみんな書きつらねた」。

いま、姜さんは、ハングルはもちろん、漢字も書け、本も漢字にふりがなさえついていればほとんど理解できる程度に読めるという。それは姜さんが長い間コツコツと独学を重ねた結果なのだ。

16歳で結婚。39年1月のことだった。そして翌2月日本へ。珍島から麗水へ。そこから連絡船で下関、防府に来た。ここで塩田で働く「浜子」の仕事についた。

「ジリジリと太陽が照りつける炎天下での作業は地獄だった。全身から滝のような汗が噴き出し、それが太陽熱でアッという間に乾いて、体は塩をまぶしたようになる。皮膚はチリチリに焼けて、上半身はまるではげねずみのようになった」

日本に来る時、「一旗あげる」つもりでいた夫にとっても、過酷な現実は、堪え難いものだった。炭坑の切羽などあらゆる仕事を転々とした。

夫と同じ様に姜さんも塩田で働く傍ら、農家の田植えで労賃を稼ぎ、ヤミ商売、飯場の賄いをし、その合間に朝鮮飴を作って、売り歩いた。その頃の民族差別は半端じゃなかった。「姜さんは顔がツルツルしているけど、朝鮮人は小便で顔を洗うから、そんなにきれいだってね」と農家の女に侮蔑されたことは70年たっても忘れられない。

植民地と祖国分断の受難。民族差別と貧しさ、女を見下す封建性の中で、黙々と、こまねずみのように働き続けた半生だった。筆舌に尽くせぬ苦労を分かち合い19年前に亡くなった夫への深い愛惜が心を打つ。(朴日粉)

 

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