〈人物で見る朝鮮科学史 26〉海東盛国・渤海(下)
2007年03月09日 00:00 歴史朝鮮史の正統な位置付け
渤海の科学技術に関しては不明な点が多いが、日本の記録に貴重な事例がある。それは、859年に来日した烏孝慎という人物が日本に天文暦書「宣明暦」を伝えたというものである。それより約300年前の554年には百済の暦博士・王保孫が日本に渡っており、602年にも百済の僧・観勒が暦書を日本に伝えている。この烏孝慎の記録はそれに続くものといえる。「宣明暦」は、その後1684年に幕府天文方である渋川春海が日本独自の「貞亨暦」を作成するまで用いられている。いずれ詳しく述べることになるが、渋川春海の師である岡野井玄貞が朝鮮通信使の一員として来日した朴安期から天文暦書に関する知識を得ており、日本の暦書と朝鮮は実に深い関係があるといえるだろう。
さて、最後に統一新羅と呼んでいた時代を後期新羅・渤海時代と改められた理由について述べよう。そのためには、渤海史がどのように位置づけられていたのかについて言及しなければならない。現在、中国の学者が渤海を自国の歴史の一部と主張しているが、元々は高麗時代に編纂された「三国史記」が渤海についてごく簡単にしか記述しなかったことが問題の発端である。実際、次の時代の歴史書に記述がないのは、渤海を朝鮮史の一部とする視点が欠けていたといわざるをえないだろう。