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〈歴史×状況×言葉 3〉夏目漱石(下)/「植民地」の存在 忘却へ追う

2010年03月08日 00:00 歴史
*円覚寺山門(夏目漱石の小説に登場する鎌倉の円覚寺)

円覚寺山門(夏目漱石の小説に登場する鎌倉の円覚寺)

「己みたような腰弁は殺されちゃ厭だが、伊藤さんみたような人は、哈爾賓へ行って殺される方がいいんだよ」「伊藤さんは殺されたから、歴史的に偉い人になれるのさ」-夏目漱石の小説「門」の宗助は、伊藤博文殺害の理由を詳しく語る代わりに、こんな風に妻お米に話す。「腰弁」(「腰弁当」の略、弁当を腰にぶら下げて出勤する安月給取りのこと)という平凡人としての自己確認は、伊藤殺害という歴史的事件から距離を置くことで成立している。「成効」という雑誌をすぐに伏せてしまう宗助は、もはや「成効(成功)」を夢見ることなく、わびしい平凡人として、暗い過去を隠し、世間から懸絶した夫婦生活と自我の内側へといっそう自ら閉じ塞いでいく。

宗助と同じく国内での「成効」コースから外れた者たちが新天地を求め大陸へと渡っていた時代、「朝鮮の統監府」の「立派な役人」となった息子の仕送りで「気楽に暮して行かれる」隠居夫婦の話が出てくる。穴のあいた靴さえ買い替えられない宗助夫婦とのコントラストが妙なる伏線とも読めるのだが、お米を奪われ満州に渡った安井の影に怯え、あらかじめ大陸での再起や「成効」を自らに禁じながら苦悩する宗助にとって、植民地は遠ざけたい場所でこそあれ、いかなる形によっても直接対峙し関係していく対象とはなりえない。当時石川啄木が、閉塞する国内状況と朝鮮植民地支配とを重ね合わせる鋭い批判的認識を持ちえたのに対し、まさしくこうした宗主国の平凡人たちによって、植民地や被支配者の存在が忘却へと追いやられたことを、小説「門」ははからずも示している。

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