「朝鮮八景歌」とそれを取り巻く人たち(下)
2014年02月05日 11:33 文化後世に伝えたかった朝鮮の心
現代朝鮮音楽の第一人者といえる李冕相が、初めて手がけた曲は、武蔵野音楽学校時代に自身が作詞した「野菊」であるが、寒い季節でも咲き続ける野菊は隠喩的表現で、屈することのない朝鮮人の心を讃えたものである。ゆえに、この曲は後に禁曲となった。
1933年にポリドールに入社するが、彼が目指したのは民謡旋律の特性に基づき、より現代的美感にあう「民謡式」の歌であった。そして「花を摘んで」を作曲、レコーディングに際して分類を民謡とした。ところが、他の音楽家から作曲家がはっきりとしているので民謡とはいえないと疑問が呈され、「新民謡」という用語で意見が一致した。
ポリドールでは早速「花を摘んで」を新民謡第一号として売り出そうとしたが、すでに「ノドル江岸」が出ており、李冕相らはそれこそ第一号と考えた。そして、その頃に設立された朝鮮人資本家によるOKレコード社が、「ノドル江岸」を新民謡第一号と銘打って設立記念盤として発売したのである。
新民謡の創作は民族的文化運動といえるが、当時、日本帝国主義者の民族抹殺政策が深刻になるなか、社会学者は朝鮮学運動を、科学者・技術者たちも産業の振興のために科学運動を展開していた。さらに医学界でも漢医学復興運動が起こる。それらはみな民族自主を目指しているが、1930年代とはまさにそのような時代だったのだろう。