〈続・朝鮮史を駆け抜けた女性たち 39〉弟の敵を許さず-何氏夫人(18世紀?)
2012年04月28日 10:37 歴史早くに母を亡くし
今も昔も相続にまつわる興味深い話は多い。
18世紀の朝鮮王朝時代、成均館の儒生だった任敬周(イム・ギョンジュ)は、自著「靑川子(チョンチョンジャ)稿」に「何氏女傳」と題して、夫に弟を殺され実家の財産を奪われそうになった何氏について書き残している。
何氏は幼くして母を亡くし、幼い弟を母の代りに慈しんで育てた。父までも夭逝、いまわの際に何氏を呼び一人息子の行く末を案じた。幸いにも家は裕福で、何氏の美貌は近隣に轟くほどで、噂を聞きつけた若者たちが彼女の家の前に列を作ったという。
嫁いだ後も彼女は弟を慈しみ、弟が成人したら父から受け継いだ財産をすべて譲ろうと心に決めていた。
義弟を殺害した夫
ところが何氏を娶った夫ははじめから財産を狙っていたのだった。ある日夫は、殺意を抱いて何氏の弟を寺に誘った。寺にある書を読もうという理由だった。度々弟を誘う夫をいぶかしく思った彼女は、衣食共に心配がないのだから人をやって書を届けさせたらどうか、と勧めた。
そんなある日、寺から夫だけが帰って来た。尋ねる何氏に、義弟は寺から遊びに行ってしまったと夫は嘘をついた。それを聞いた何氏は家人と共に寺の中を探したが弟は見つからず、とうとう寺の池を浚うと岩の下敷きになって死んでいる弟を見つけた。その時の何氏の行動について「靑川子(チョンチョンジャ)稿」には、次のように書いてある。
「(何氏は)空を仰いで嘆き、『私には弟がひとりいます。父が臨終のとき私に頼んだのです。もうこれ以上弟の死を見過ごすことはできません』と言った。その日のうちに素服(『そふく』とは、凶時に際して着用する喪服の一種。本来は飾り気のない凶服の総称であり、染めない素地のままの麻の布などが用いられた)に着替えて役場に駆け込み、(役場の)庭で遂に自らの喉を突いた。何氏は自死に至る時でさえも一言も夫のことを言及しなかったが、(彼女が)役場の庭での自死を選ばなければならなかったのは復讐を求めてのことだったのだ(「靑川子稿」―河氏女傳―任敬周)」(仰天大慟。吾有一弟、父将死以屬於我、今吾誠不忍弟之死也。卽日素服馳入所屬縣、遂自刎於庭。・・・何氏臨死雖無一言及夫、然其必就死於縣庭者、乃所以求復讎也)
夫は義弟殺害の凶行が発覚し、投獄の末死刑になった。
人間的な心の欲求
この事件を受けて「靑川子稿」の筆者任敬周は、父の敵である夫を殺害した妻の事例をあげこれを君子は婦道に反するものだと評価していると言いたて、続けて河氏を激しく非難している。
「まして弟の復讐のために夫を死に追いやるなどもっての外である。当時もし何氏が夫に『父が私に弟を任されたのにあなたが弟を殺してしまったのでもうあなたを敬うことができません』と言い、夫の前で自死したのだったなら、弟の敵を討ち、夫婦間の倫理も守れたのではないだろうか。よって私は言う。何氏の死は烈であるが、しかし道(婦道)を尽くすには至らないだろうと」(况可以為弟讐夫哉。當其時使何氏者、告其夫曰、吾有此弟、父歿而托於我、今子殺之、吾終不能事子也。遂死其前、其所以報亡弟而處夫婦之倫者、豈不善歟。余故曰、何氏之死烈矣。然惜盡道也)
財産を奪う目的で弟を殺した夫との間にどんな「夫婦の倫理」が存在し得るのだろうか。早くに両親が夭逝し、寄り添って生きて来た姉弟である。ましてや姉であると同時に父と母をも兼ねていた何氏の悲しみはいかばかりであったろうか。自らの手を汚して夫の殺害に至るどころかわが身を犠牲にして復讐を遂げる選択はいかにも悲しいが、後期朝鮮朝時代のストイックな朱子学が提唱する男性に従属的で従順な生き方を徹底的に強要する当時の「婦道」を考えるとき、何氏の行動は人間的な心の欲求がもたらした一種の抵抗だと捉えることができる。人はどんなに抑圧を受けていても、その愛情の発露を抑えることは不可能なのだ。
(朴珣愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)