非対称性を考える
2023年03月22日 09:00 取材ノート 論説・コラム北海道における強制労働犠牲者たちの遺骨発掘および追悼と、歴史を発信・共有する拠点であった「笹の墓標展示館」が、今夏、再建を控えている。本紙では今年2月、その「展示館」再建に向けた巡回展に携わる関係者らの声を、全4回で紹介した。その際、深く考えさせられた言葉があった。
永田道子さん(※仮名)の「日本人が自分のルーツを知る取り組みに力をいれたい」という言葉だ。一見すると、偏狭的ナショナリズムを強化する文脈の話にもみえるが、そうではない。これは、在日朝鮮人との出会いを機に「日本にいることは当たり前で、それを考えなくても生きていける」自分と、「在日」との非対称性を感じたのがきっかけとなり、かのじょの人生において重要な「日本人自覚」を持ったことが影響した言葉であった。
「自己紹介をするとき、在日朝鮮人の友人たちは、自分の出自や歴史を話さざるを得ない。けれど私は、名前を言うだけで自己紹介になってしまう」「『在日ってなんだろう』と考えざるを得ない状況にいるかれらと違い、私はそんな悩みなんてない」
かのじょの言葉から、改めて非対称性を考えてみた。電車のなかで、教科書を開く学生をみて、私がいまウリハッキョの学生なら開くのが怖いかもしれない。日本語で話しながら街中を歩く人々の姿をみて、状況によっては朝鮮語で話す際、人目を気にしてしまうかもしれない。
この社会は非対称性であふれている。けれど裏を返せば、永田さんがそうだったように、それに気づける要素もまたあふれている。
(賢)