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身近な戦争危機

2022年07月14日 08:50 取材ノート 論説・コラム

城下町の西舞鶴と軍港都市・東舞鶴。二つの顔を合わせ持つ舞鶴市には、いまも当時の面影が残っている。

今年4月、取材でこの地に初めて足を踏み入れた時、衝撃だった。車で移動しながら、窓越しに見えるのは、右も左も海上自衛隊の関係施設。基地が国道27号線に面しているため、道路からも停泊中の艦船や海風になびくたくさんの日章旗がみえるのだ。

それだけでない。三笠通りや八島通りなどの道行く道は、軍艦名を由来とする名が付けられ、地元学校の門柱は、かつてその場所が日本軍の施設だったことを伝えている。

さらに魚雷庫や小銃庫といった旧海軍施設を観光地化した赤レンガパーク、敗戦後に被植民地国などから戻ってきた引揚者らに関する展示を行う舞鶴引揚記念館など、人々の文化や生活圏のなかに、戦後日本の復興に対する積極的イメージがしみ込み、増幅される構造が存在する。侵略戦争という歴史の内実は伏せたままに、だ。

1960年代から浮島丸事件の殉難者を追悼する取り組みを進めてきた市民らは、「名前こそ自衛だが、中身は軍隊ですよ」と口をそろえていたが、先述のような戦争危機を身近に感じるからこその言葉だと思うと、大いに納得ができた。

一方で、このような社会を築いたのは他でもないこの国のマジョリティであり、よって、築きなおすのもかれらが主体となってこそ成せる。舞鶴の地で戦争加害を語り継ぐ市民らの姿から、そのことを再確認した。

(賢)

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