〈取材ノート〉駒大問題を取材して
2021年07月29日 09:00 コラム 歴史 民族教育駒澤大学に在学中の在日朝鮮人学生が、学生証の記載を「通称名」から本名に変えようとした際、大学側がその申し出を拒否し変更の条件として「お詫び」を求めた事件。今回、被害当事者の告白によって事件が明るみになり大学側が制度を是正、本人へ謝罪するに至った。
これと関連し、6月から関係者らに取材する過程で、「声をあげる」ことについて度々考えた。自ら声をあげる意義をどのように見出しているのか―。
差別や排除反対を掲げれば「なんでもかんでも差別と騒ぐ」と批判や罵倒の対象となり、ネット上ではすぐさま攻撃の的になる。しかしその声の主は一部の「ネット住民」だけでない、身近な在日朝鮮人たちの中にも存在する。
後者のそれが十二分に理解できるのは、日本の植民地解放から半世紀以上が経ついまも構造的・制度的な差別があり、声をあげればそれらが生活の根幹を揺るがしかねないから。他方で、駒大問題で取材した大学生たちは、高校無償化の恩恵を受けることなく朝高生活を終えた世代で、かれらは「声をあげたが無視され何をしても変わらないという諦めの経験をもっていた」。しかしある学生がこう話した。
「ウリハッキョで学びながら声を上げ獲得した権利がたくさんあることを知った。勝ち取るまでの間に先輩たちは何度も諦めの経験をしたはず。もし自分がいま声をあげなければ、理不尽な状況のまま社会が完成しそこに後輩たちが生きることになるから」。
声を上げ獲得した権利とその歴史を、いま一度見つめなおそうと思う。
(賢)