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1世の思いが詰まった場所に/「ウトロ平和祈念館」

2021年06月30日 17:26 主要ニュース 暮らし・活動

差別と貧困のはざまで闘い続け

6月26日、「ウトロ平和祈念館」の建設を控えて「飯場」前で統国寺の崔無碍住職による祈祷が行われた

2022年4月に開館を予定している「ウトロ平和祈念館」の説明会(6月26日)で、市民団体「ウトロを守る会」の田川明子代表はつぎのように話した。

「『被告』として、悔しい思いをしながら、ウトロの地で亡くなっていった1世の在日の方々がいるということを心に留めておきたい。1、2世の故人たちが頑張ったなと言ってくれるよう、祈念館の建設に向けて力を合わせていきましょう」

戦時中、日本政府や国策企業によって進められた京都飛行場建設には、多くの朝鮮人労働者が動員され、ウトロ地区に住むようになった。

ウトロ地区に残る家屋

祖国解放後、朝鮮人労働者とその家族をはじめとする同胞らはウトロの地で集落を形成し、戦後の混乱を生き抜いた。植民地支配下で侵略戦争を遂行するための事業に従事されたにもかかわらず、朝鮮人労働者たちに対する補償は一切なく、かれ、かのじょらは日本社会から置き去りにされた。

このような背景があるにも関わらず、1987年、日産車体はウトロ住民らの意思を無視し、土地所有権を「西日本殖産」(大阪市の不動産会社)に転売。ここからウトロの土地問題が始まった。「西日本殖産」は89年、ウトロ住民らに「立ち退き」を要求し、「住民らに土地所有権はなく不法に占有している」と訴訟を起こした。突如「被告」とされたウトロの同胞たちは土地とコミュニティ、生存権を守る闘争に奔走した。

2000年11月、最高裁は「西日本殖産」の主張を認め、住民全員に立ち退きを命じた。問題を土地の所有権の有無に関する事項とのみとらえ、居住に至った経緯、長期占有の実態を切り捨て、政府や企業、自治体の戦争責任、戦後補償責任を無視した不当判決だった。

以降、立ち退きの強制執行の恐怖に脅かされるようになるなか住民たちは、総聯南山城支部とともに「強制立ち退き反対運動」を繰り広げた。2000年代にはウトロの土地を購入し、行政に公営住宅の設立を求める案が住民らと支援団体で進められた。支援の輪は広がりをみせ、総聯組織をはじめとする日本各地の同胞ら、日本市民や南朝鮮などさまざまな市民団体が団結し、土地購入のための募金運動が展開された。

ウトロ地区への支援を表明するイラスト

07年10月、長年の闘争が実を結び、ウトロ住民と「西日本殖産」との間で土地の売買契約が締結され、土地問題が決着した。

16年には、日本政府、京都府、宇治市による住宅環境整備事業が実施された。市営住宅建設に伴う家屋の解体、上下水道の工事などが進み、17年末に、鉄筋コンクリート造り5階建ての市営住宅第1期棟が完工。2DKが20戸、3DKが20戸の計40世帯分となっており、18年1月に住民らの入居が始まった。現在、2期棟の整備と並行し、道路の整備も進められている。

日本政府が戦後補償に無策を決め込むなか、差別と貧困のはざまで闘い続けてきたウトロの同胞たちは、「祈念館」が「1、2世の同胞たち、共に闘った日本市民たちの思いが詰まった場所になる」と心を躍らせる。また建設にあたり、同胞らをはじめとするウトロ地区の住民と支援者らでワークショップを開催し、施設のコンセプトや館内外の設備に関する意見を定期的に収集。かつて朝鮮人労働者らが暮らしていた宿舎「飯場」も施設に近接して移設し、当時の同胞たちの生活を再現する予定だ。

「祈念館」の設立趣意書にはこのように記述されている。

「戦争から生まれたウトロと言う地域を守り抜いた人々の姿を通じて、人権と平和の大切さ、共に生きることの意味を伝えていける場所になることを切に願っております」

(全基一)

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